すると、彼女の反応にはショックでした。「ああ、そう。母は私を育てずに他人の子供を育てたのね」と。
彼女は母親に対して深い反抗心を持っていたと感じました。どんなにつらい思いをしておばあちゃんは私たちに接していたのか、彼女には知る術もなかったのです。私はその話をしてあげました。その後、私たちは親しくなり、彼女は母親のことをもっと知りたくなったのです。多分、お母さんに親近感を覚えたと思います。
でも、同じ茨の道を辿らなかった人にその様な痛み、苦しみや喜びを説明することはとても難しい事だと思います。
けれども、別れ別れに生きなければならなかったあの時代の過酷さや苦しさとの関係を含めてお互いの心の傷や苦しみを率直に語り合い続けることの大事さをタツさんとの語り合いは、私たちに教えています。
私たちが子供のころ、よく叔母の家で過ごしました。従兄妹、兄弟全員で12人いました。やすまさ、よしあき、はつえ、さよこ、かずお、やすえ、たかこ、きよこ、そして私たち4人。みんな集まると大騒ぎでした。
でも、実際はおばあちゃんの家へ行くことが多かったのです。おばあちゃんの家では、私たちは自分たちの実家のようにくつろぐのでした。現在でも、もうこの世にいない者もいますが、おばあちゃんの孫たちに会うと、兄弟に会うような思いになるのです。
第34章 最後の願い
ある午後、ちょっとした外出の帰りの途中にヴィラ・アルピーナ火葬場の前を通り過ぎた時の事でした。父はいきなり「僕は世界一幸せな爺さんだ! 行きたかったところへは全部行ったし、子や孫は皆元気で良い人たちだ。僕が死んだら、火葬して灰をアルジャーのポウザーダ・ダ・パスに持っていってくれ。お前のお母さんと一緒にしてくれ。死んでから誰にも迷惑はかけたくない」、と語りました。
そんなことを発言した後でも、まだまだ何回も親戚、友達に会いに行ったりしました。その中には「憩の園」で暮らしていた夫婦がいました。父は二人が家族と離れて暮らしていることがとても気の毒に思いました。3人とも会う度に沖縄の思い出話に花が咲き、楽しい、のどかな一時を過ごすのでした。
父は友人も多く、他人にもとても好かれていました。父のお医者さんだった鈴木ただし先生も父の大の友達でした。
その先生は心動脈瘤で倒れてしまったのです。集中治療室へ運ばれていく途中、先生は友人の女性医師を呼び、私の父の事を話し、「絶対に入院させずに、家で治療を行うようにして」、と頼んだのです。
その女性医師は父の部屋で最新の集中治療室を設備しました。そして、残念にも最後まで患者のことを心配して下さった偉大な鈴木ただし先生は、一週間で亡くなってしまいました。
父の主治医になって下さった女医さんは家で診療して下さり、臨床検査のための材料も家で採取しました。
その頃になると、私はもはや父が苦しんだり、痛みを感じたりしないようにと願うばかりでした。父は特に宮本武蔵のビデオを見るのが好きでした。私は一緒にビデオを見ながら機会ある毎に漢字の読み方や意味を聞いたりして会話をするように心がけ、父は気長に説明してくれました。