東日本大震災の被害者には様々なケースがありました。NHK連続テレビ小説『おかえりモネ』のモネさんの場合、震災時に高校受験のため仙台におって、数日後に地元の気仙沼市に戻った18歳の女の子が、家族や幼馴染み、地元の人々と津波を直接体験しなかったことで、どうしても仲間はずれ意識から脱却出来ず、高校卒業後、島から離れることになりました。
私はサンパウロの宮城県人会の会長として、リベルダーデの新しい会館の不足する施設を増築したり、青葉祭りや七夕祭りなどで、より安定した運営が出来るまでと努力している時に東日本大震災が起きました。
ブラジルのマスコミの取材、岩手・福島両県人会と慰霊の行事、募金活動、身元調査など母県と連携しながら懸命に働いたつもりですが、所詮よそ者、震災後に交流がうまく行かなくなった経験をしました。
モネは北上川が流れる隣の登米市の林業組合で多くの方々と出会い、大人に成長させてもらいました。気象予報士の資格を取得して、登米・気仙沼でわだかまりをはき出し、皆さんに温かく見送られながら上京するところで第一部が終わりました。
この宮城県の気仙沼と登米の地は私の故郷です。モネの育った気仙沼大島は朝ドラでは亀島となっています。大島に亀山という山があって亀島となっています。人口3千人位で気仙沼湾にあり、私の生まれ育ったのは島の岩手県側の唐桑半島です。
モネのお祖父ちゃんは、「森は海の恋人」という言葉で有名な、国連からフォーリストヒーローとして表彰されている畠山重篤氏がモデルとなっています。彼は中学時代の同級生です。
「森の葉の養分が雨水に溶けて、川から海に流れ、海水を豊かにする」と提唱し、気仙沼湾に流れる大川の上流に植林運動を展開して全国的なモデルケースとなりました。私は2007年6月に岩手県室根山で行われた植樹祭に参加出来ました。気仙沼湾は今ではきれいですが、戦後水質が悪く、赤潮が発生して、カキに赤身が入り被害が出ていました。
モネが高校を出て内陸の登米に行ったように、私は漁師町唐桑町で生まれましたが、15歳で農業を志し、ブラジル移住のため登米市の隣大崎市にありました宮城県海外移住者養成所に入りました。太平洋の大海原を見て育ったのに内陸の平野を見た時、広いなーと感激したのを覚えています。
歴史ある「宮城の明治村」登米市
登米市は合併して大きくなっていますが旧登米町は歴史の町です。仙台(伊達)藩の創始者、伊達政宗の重臣・白石宗直が1604年登米入りし、北上川の河道変更工事、大阪冬の陣に参戦、伊予宇和島十万石の宇和島城受け取りなどの功績により1615年に伊達姓を名乗ることを命じられました。
歴代藩主は河川の修復整備に努め、新田開発に力を入れて石高を上げ、養蚕を奨励しました。北上川河口の石の巻港が開かれると、仙台南部両藩の運搬船の中継地として栄えました。後で述べる製鉄業が山手で盛んに行われました。
1983年から1986年までブラジル大使をされた伊達邦美大使は登米伊達家の出身です。
明治に入り、廃藩置県が現在の形になるまで幾度も変更になりましたが、当初伊達藩は2県に分けられました。北は登米県です。明治4(1872)年登米県庁舎の建設が始まりました。一の関県、水沢県と変わりましたが県庁所在地は登米でした。明治9(1876)年、現在の宮城県と岩手県の県境が決定しております。
その間、県庁には後で台湾総督・初代満鉄総裁、関東大震災時の東京市長を歴任された後藤新平、及び海軍大臣・総理大臣の斎藤実が登米県庁に勤務しておりました。江戸時代、仙台藩は現在の岩手県金ヶ崎市、海岸は釜石市近くまであって、両氏とも水沢(奥州市)出身です。
因にアメリカ大リーグの大谷選手も奥州市出身です。平泉文化の流れを感じます。
登米には明治を代表する建物が残っており、「宮城の明治村」と呼ばれております。合併した現在の登米市には国際的に重要な湿地を保全するラムサール条約に登録された伊豆沼があります。
そしてダム洪水対策・観光地を兼ね揃え、おかえりモネの撮影現場になっている長沼があります。それに林業の津山があってこの番組が構成されております。
ニッケイ新聞の記者をしておりました故石塚大陸氏の実家は登米の材木店です。晩年全く聞こえなくなり、バールで飲んでいる所を通るものなら、大声で呼び止められ、筆記での話し相手となりました。捕まったらなかなか帰してくれない。懐かしい思い出です。
宮城県人会事務局長の故後藤信子さんは登米の郷土料理「はっと汁」「油麩どんぶり」など作って振る舞ってくれました。お二人とも生きていたらこの番組を観て さぞ喜んだことでしょう。
千葉家の偽芭蕉逗留の家伝は事実か
さて2017年5月20日のニッケイ新聞に、特別寄稿「千葉勇の祖父の地の謎、家伝刻む石碑にあり得ない記述」と題して掲載されましたが、登米懐古館、及び登米市文化財保護委員会からの資料提供によってその謎が解けました。
千葉家は登米市東和町出身です。1931年(昭6)~1939年(昭14)まで14人移民しました。三男勇喜氏の子息イサミ氏は40冊も本を出し、80万部のベストセラー作家です。ニッケイ社会に無縁だったイサミ氏が晩年、ブラジル日系アカデミーを設立、これからという時に亡くなりました。
その意思を継いだ会員が偲ぶ会をしたいと県人会に来られたのが縁となり、2017年3月、有志の訪日に千葉家の先祖の地を訪問することが決まり、県庁から登米市役所に連絡してもらい案内して頂きました。
その地で次男仙蔵氏が1982年に建立した、松尾芭蕉逗留碑と出会いました。帰国を待って詳細を聞き調べたところ、奥の細道には登米には一晩の逗留となっています。ところが石碑には10日間とあります。登米市に問い合わせたところ郷土史家は認めていないとのこと。千葉家が家伝として受け継がれてきた芭蕉逗留の謎が深まりました。
この『おかえりモネ』の機会に登米市の資料提供を市役所に依頼しました。資料を見ると以前より気になっていた隠れキリシタンの項がないので再度お願いしました。
実は私の父は登米に隣接した岩手県東磐井郡千厩町出身です。江戸時代は仙台藩で父が歴史を語る時は仙台藩の人になりきっていました。郷里の歴史の中に、登米から東磐井郡にかけて隠れキリシタンがおったという話です。登米市から送られて来たキリシタンの歴史は想像を絶するものでした。今まで知らなかったことが恥ずかしく思います。
みちのくの知られざる隠れキリシタン
1557年(永禄元年)に鍛冶屋であった千葉土佐が砂金を採っていると、鉄が多く含まれていることに気が付き、備中(岡山県)から製鉄技師千松兄弟を招きました。伊達政宗が生まれた1567年の10年前です。この千松兄弟がキリシタンでした。フランシスコ・ザビエルが日本で布教活動を開始したのは1549年ですから、初期のキリシタンで、みちのくでの最初のキリシタンとなっております。
岩手県南部と宮城県北部一帯は金の産地として知られていました。金色堂に象徴される平泉100年の繁栄、伊達政宗の活躍も金によってもたらされました。その金の産出に製鉄が加わりました。千松兄弟は出雲地方で発達したたたら製鉄方式の職人でした。
この地方の製鉄は、この地方一帯に砂鉄が産出したものですから生産が伸び、大阪城の豊臣秀吉に差し上げ御用鉄として数万貫、1597年岩手山城の伊達政宗に送ったなど千葉文書に載っております。石の巻では寛永通宝の鉄銭が造られました。
1603年徳川幕府成立、1611年(慶長16年)伊達政宗、キリシタンの布教を許しています。ヨーロッパの金銀銅の採掘技術・造船技術・貿易など、興味のある新知識を宣教師が政宗に持ち掛けていました。1613年支倉常長・ソテロらの遣欧使節団派遣、同年幕府はキリシタン禁教令を発布、京坂で大規模なキリシタン取り締まりがあって津軽とかマニラに追放。
伊達藩には多くの宣教師が入り布教活動を続けたが、幕府の度重なる命で伊達藩も1620年(元和6)キリシタン禁制を布告、1624年(寛永元年)カルヴァリョ・ソテロら仙台藩内で殉教する。1636年(寛永13)伊達政宗死去、鎖国令が出、翌年島原の乱が起きています。
1639年登米の大籠で300名が処刑されました。この事件から約半世紀1687年(貞享4)幕府はキリシタン類族改め制を定め、キリシタンの取り締まりを強化しました。
その2年後、1689年に松尾芭蕉が石の巻から登米を通っています。全国的に偽芭蕉の言い伝えがありまして、登米地方に何故芭蕉の名を語って10日間も逗留したかを分析すると、幕府の隠密説が浮かび上がって来ます。有名な文化人芭蕉の名を使い侵入すれば隠密と疑われるリスクの少ない方法です。
1716~36年(享保年間)登米米川三経塚で120名が処刑されており、偽芭蕉逗留の時代はまだキリシタンの取り締まりが強い時代でした。従って逗留の第一の目的はキリシタンの動向、第二に製鉄業の動きを探るとすれば、双方共に幕府にとって監視すべき最重要な事柄でありました。
実は「登米」の発音が謎を解く鍵か
2017年6月ブラジル日系アカデミー一行の帰国後、登米市役所に石碑の取り扱いについて相談し、仙蔵氏の子孫とも話し合いました。改めて考えて見ると、千葉家偽芭蕉逗留の家伝は事実であって、今で言う「フェークではない」と認めた上で取り扱いたいと思うようになった。全国的に偽芭蕉逗留の伝えがある中で、珍しく石碑を遺してくれました。
日本の方なら郷土史家が認めない芭蕉逗留の石碑は作らないでしょう。経済的に豊かでなかった仙蔵氏が、わざわざ大金をかけて故郷に石碑を建立した情熱を考えると、なんとか意義のある保存方法を求めたいと思います。
荒鉄・延鉄の集積場、及び積み出し港は本流の北上川沿岸ではなく二股川にあって、北上川が氾濫した時の避難する入江の役割も果たしていました。正に、仙蔵氏が石碑を建てた辺りであります。そこには鍬などの農具の問屋があって代官屋敷もあったことでしょうし、仙台藩としても最重要地点でありました。製鉄業者は帯刀を許される身分でした。砂鉄を掘った跡地は水田に整地されました。
こうした登米を中心とした製鉄は江戸時代から明治初期まで続きました。隠れキリシタンは屋根裏に祭壇を設け、祭壇のある洞窟も発見されております。
明治に入り明治政府は鉄鉱石を輸入し、近代的な製鉄所を好立地の港を選び各地に建設しました。安価で大量の鉄が出回ると砂鉄を原料とする日本の伝統的な製鉄業は対抗出来なく衰退して行きました。砂鉄掘り・伐採・炭焼き・製鉄・輸送販売など大量の失業者が出たことでしょう。
ブラジルに移民した千葉家は登米での炭焼き技術で財を成しました。勇喜氏が晩年僧侶となり、妻きくえさんは書道の大家でした。そして著名なイサミ氏が出現、千葉土佐の末裔とするとその文化の高さが受け継がれております。
登米の同じ発音はブラジルにはアマゾンの日本人移住地トメ・アスーがあり、ミナス州の採石で有名なサントメ・ダスレトラス、アルゼンチンにはサントトメがあります。「Tome」はキリスト12使徒のトーマスですから、世界中にトメの地名があります。登米は芭蕉の時代には戸伊麻と呼ばれておりましたので、もしかするとキリシタンが登米と変えたのだろうか。
朝ドラ『モネ』から登米物語に飛躍しました。まさか、生きている間に今回のような気仙沼・登米のことを書き残せるとは思いませんでした。NHK朝ドラは世界中の日本人・日系人の多くが観ております。特にブラジルは夕食時の夕ドラで、ゆっくりと観られる時間帯です。
モネが東日本大震災時のわだかまりから抜け出し、気象予報関係でどのように展開して行くか楽しみです。地球温暖化で待った無しの対策が叫ばれている昨今、地球の環境問題を理解するのに大変有意義なドラマとなるようです。
モネ(舞根)さん がんばれ!
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