台湾移民のパイオニア
モジ・ダス・クルーゼスの長老派教会の記録に残された、1963年にサントス港に上陸した同教会の6家族や他の初期移民は、彼ら以前に到着していた台湾人のパイオニア移民であり、台湾の彰化クリスチャン病院の第8代院長だったヤン・ユーチ(楊毓奇)医師の支援を受けたことが確認されている。
ヤン・ユーチ医師は1907年、ルガンの長老派教会の家族に生まれた。台南神学校を卒業し、牧師として一定期間働いた後満州に行き、台湾に戻った後、1951年に彰化キリスト教病院の第8代院長に就任した。
1953年、ヤン・ユーチ医師は英国で学ぶため、中英協会の奨学金を獲得した。奨学金を得るために協力したのが、彰化キリスト教病院の創設者である英国の宣教師デビッド・ランズボロー医師の息子であるデビッド・ランズボローⅣ医師だった。
創設者のランズボロー医師が台湾に医療サービスを設立する目的で到着した1895年は、奇しくも、日本とブラジルがパリで日伯修好通商条約に調印し、清王朝と日本が下関条約に調印して台湾が日本統治領となったのと同年で、後に、彰化キリスト教病院が設立された。
ヤン医師は英国に行った後、最終的に米国に渡り、台湾の病院には戻らなかった。そして、ニューヨークのブラジル総領事館でビザを取得し、1955年8月25日、リオ・デ・ジャネイロに到着した。
日本移民の暮らしていたモジに農場を購入し、翌年4月11日には3人の子供もサントス港に到着。息子のピーター氏によれば、少し遅れて5月4日に妻と娘も到着した。ヤン家族が他の台湾人に出会えたのは、到着して数年後のことだったという。
ヤン医師が移民先としてブラジルを選んだ理由は、日本語ができる多くの日本移民がいたことも関係していた。
台湾移民の要因
戦後、台湾移民を引き起こした要因については、主に50年、60年代の中国の国民党と共産党の内戦後に、政治や経済情勢が不安定となったことや、70年代には台湾は米国と外交関係を断絶し、国連から脱退したことが挙げられる。
中国との問題で、台湾の独立を求める民主化活動家や国際情勢の中で台湾の危機を感じた人々が、避難先として家族とともにブラジルに移民することもあった。
90年代以降、台湾は民主化を達成し、政治的安定と経済成長が得られたことから、ブラジルに来る移民は大幅に減少し、移民した人の中にも台湾に戻る人が現れた。
近年では、一貫道(I-KuanTao)*の移民が少数いるほか、台湾の多国籍企業から駐在員が短期滞在しているのが一般的な状況である。
日台友好はアジアからブラジルでも
台湾人コミュニティは、ブラジルで様々なコミュニティと共存しながら社会に統合されてきた。特に移民初期から助け合って来た日本人コミュニティとは良好な関係にある。
「日本は戦前50年の台湾統治時代、多くのインフラ整備を行い、たくさんの良いものを残してくれました。 ほとんどの台湾人は日本人を良い友人だと思っています。日本と台湾は現在もアジアの様々な外交問題で重要なパートナーです。サンパウロでは、台北文化センターとブラジル日本文化福祉協会が近所にあり、常に交流があります。この友情はアジアで始まり、ブラジルでも続いています」と張氏は語った。(続く)
(※宗教グループの一貫道が南米に移民する目的は、アルゼンチン、ブラジルなどに教えを広めることである。オープンしたベジタリアンレストランは、ブラジルの多くの都市で人気がある)