「今、ナナ・モースコーリの La Palomaを聞きながら、キャビアーをつまみにレミーマルタンをちびちび飲んでます」と言いたい所ですが、実は鰯の干物を齧りながらセアラー産のピンガ、イピオカをすすりこんでいます。
ナナさんもう83歳になったそうです。なんだ俺と三つしか違わないじゃないか? 彼女の唄うララバイもお気に入りの唄です。彼女の声は天使のささやきと絶賛されています。
40数年前、私がユダヤ人の経営するコンベアー(搬送装置)製造会社に勤務して居た頃、ナチ空軍メッサー・シュミットのパイロットだったドイツ人が入社してきました。
いかにもドイツ人らしい風貌できつい目付きの人でした。彼が入社して一年過ぎたある日、社長のハンス・コーヘンが予告なしに彼を解雇したのです。
同じ課で働いていた訳ではないので、解雇の確かな理由は解りませんでしたが、前日まで新しい企画の座長を務めていたのに・・・? しかもハンスとはとてもウマが合っているように見えました。
退社の日グスタフさんはなんで自分が解雇されたのか見当がつかないといった放心したような表情で会社を去っていきました。口さがない連中は、ユダヤ人の仕返しではないかとしきりに噂をしていました。
ユダヤ人が二千年前頃国を追われ、今日まで生き延びて現在の地位を獲得できたのは、幼い時からタルムードと呼ばれているユダヤ人として守らなければならない人生の指南書を、何世代にも渡って熟読してきたお陰です。
その上、さらに居住する国の言語のみならず、数カ国語を成人するまでにマスターしていると、知人のクルツ(スイス人)さんは言っていました。
大切な情報の大部分は、言葉で伝わって行きます。多くの外国語を話せれば、自国以外の国々で起きている出来事が解ります。単一言語しか話せない人々より有利な位置に立てるのです。
ユダヤ人が生き延びていくために、多くの外国語を習得することは、あらゆる情報が他よりも早く手に入るので、特に商取引の世界で勝っていくための必須条件なのです。
外国語と母語では話している時の態度が異なる
私達伯国に住む移住者は、ポ語を使って日常生活を送っています。そしてポ語を使っている時と、日本語を話している時の自分の心の動きの違いに気付きます。
ポ語を話している時の自分はどちらかというと積極的で、態度にあいまいさが無いのに対して、母語の日本語の時はイエス・ノーをはっきり言わなかったり周りの空気等を読んで波風が立たないように気を使ったりしています。
この経験から、多言語を話す人達は経験豊かな役者と同じで、話せる言語の数だけ人格も変わるのだと思っています。誤解されるのを承知で、あえて言うなら、「良い意味での多重人格者」とでも言うのでしょうか。
長編ドラマの主人公がドラマ終了後、本当の自分に戻すのに時間がかると言うのを良く耳にします。それ程役柄に対して感情移入をしていたのでしょう。
このことは多言語話者にも当てはまるのではないかと感じています。そこで日に何度かは本当の自分に戻らないと、自分の心のコントロールができなくなるのではないかと思っています。
心の平穏さと言えば、我々と欧米人の休暇の過ごし方の違いについて観察してみたことがあります。我々は海岸に行くと着いて30分も立たない内に立ち上がって、そこらじゅうを歩きまわり貝などを探したりして落ち着きがありません。
それに対して、欧米人は砂浜に寝そべりひたすら日光浴をするのです。何にもしないのが彼らの流儀なのです。
このことは職場におけるストレスの強さと関係があるのではないかと思っています。日本のサラリーマンは仕事帰りに同僚達と居酒屋で上司の悪口を肴に軽く飲んで、その日の憂さを晴らす習慣があります。
しかし彼らは仕事が終われば一目散に我が家へ直行です。したがって彼らのストレス発散の機会は、日本人よりは少ないのではないかと薄々感じていました。そして彼らのストレスへの強さは、恐らく日本人の何倍もあるのではないかと思っています。
だから仕事を離れた場所では、ひたすら何もしないことでストレス解消をして心のバランスを保っているのではないかと思っています。
多言語話者の能力は諸刃の剣
これはあくまで私個人の推測ですが、高名なユダヤ人心理学者が多いのと同じくらい、彼らの中には多くの精神異常者もいるのではないかと思っています。何故なら総ての多言語話者が本当の自分を常に取り戻しながら日常生活を送ることが出来たとは思えません。
心の混乱の中で自分を見失っていった人達がいたとしても、少しも不思議ではないのです。その人の人格形成上、最も重要な部分として、母語が影響していることは、言うをまたないと思っています。
そしてあえて言うならば、多言語を話すということは、もろ刃の剣なのかもしれません。使い方によっては大変便利かもしれませんが、一旦その使い方を誤れば自分自信を傷つけかねません。
海外で生きる日本人の一人として、あらゆる場所・機会で二重基準的言動、行動を取らざるを得ない局面があります。
例えば、あからさまな嘘をつくことは、どこかの国を除いては何処の国でも決して受け入れられません。ですが、本当のことを正直に言ったことで受ける損失は、自分が負わなければなりません。
本来、自分が持っている人格・性格が話す言語によって、微妙に変化する不思議さに心を奪われることをしばしば体験してきました。
日本のように一億数千万人が日本語を話し、ヨーロッパの言語に頼らずに科学技術用語を日本語で表現できる国は、世界でも十指にも満たないと言われています。
日本人の英語力が、一部の人を除いて、世界では最下位だそうです。でもそれは、日本人の外国語習得能力の問題ではなく、覚える必要性が無いからです。
ちなみにリベルダーデで商売を始める華僑の人達は、移住後数カ月もすれば商売に必要な言葉を覚え伯人達と堂々と渡り合っています。人は必要性を感じなければ、面倒な外国語など無理して覚えようとはしないものです。
多民族複合国家の中で生き延びて行くには、否が応でも多重人格的にならざるを得ないものと思っています、そのことが「良い悪い」では無くて、そうせざるを得ない環境と捉えています。
煮ても焼いても食えない連中と付き合うには、日本人的な和を尊ぶ等という考えはきれいさっぱり忘れて、ダブルスタンダード(二重基準)的思考に徹して、欧米人を始めとする外国人に対応することは不可欠なことだと思っています。
いわゆる日本人特有の性善説をしばし忘れることではないでしょうか。但し、この場合の「二重基準」は「二枚舌」とは完全に一線を画しています。
「二枚舌」とはあからさまに平気で嘘をつくことを言います。それに対して「二重基準」は、嘘は言ってないが、本当のことも言ってないという極めて微妙な違いが両者の間にあるのではないかと常々感じています。
このことは多民族国家の中で生き延びて行く戦略であり、必須条件の一つではないかと感じているのです。
知り合いの女性に数カ国語を話す人がいます。ある時、「ふだん何語で考えているの」と聞いたら、ポ語ですと言っていました。そして状況に応じて瞬時に他の外国語モードに切り替わるのだそうです。
このことは言葉で説明ができないと言っていました。きっと彼女だけの世界があるのであろうと思っています。
終わりに、短歌同好会に発表済の一首
「ジジババの 新潟弁を 我が子らは ポ語に訳して 我に伝える」
お後が宜しいようで・・・・。
《参考書籍》『やっと自虐史観のアホらしさに気付いた日本人』ケント・ギルバート著