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繁田一家の残党=ハナブサ アキラ=(15)

 霧島の太目のママさんを、山下さんは「とんげん」つまり豚カツの原料と呼んでいたが、気風のいい女傑で、おやじを尊敬してた。
 このママとは、どこまで、できてたかは知らんが、寿司屋のママとはだいぶやったらしく、立たなくなってひねりで入れてくれとチ××をひねっておいて手放すと反動でオ××に入る(ねじ回しの原理)、それでも駄目ならボ×を舐めまわしてくれと云われたとか。
 那珂川に面した中洲の小料理屋「こけし」を経営する執行さんは「繁田様を公私ともに、お世話しました」と云わっしゃる。
 「こけし」と渡り廊下で中でつながる高級ナイトクラブ「薊」で、昔チーママをしていた執行さん。珍しい苗字なので訊いてみたら案の定、執行さんの叔父さんは、生前、甲子園で耳鼻科をしており、ワイが受験に失敗した浪人の頃に蓄膿の手術をしてもらった当の先生やった。
 「薊」は美人ぞろいで、山下さんのお気に入りの奈々は、スナック「ナナ」を中洲で開業し大はやり。石原慎太郎と一橋大学同級生で、会社では最高学歴の椎根勇さんが九州支社長に赴任し「ナナ」に通いつめた。子会社の東芝医療用品社長になってからも、同社福岡営業所長の柴田に福岡出張の機会をつくらせていた。
 美人の椎根夫人は、ワイら33年組同期入社で当時みんなのあこがれの的やった。そやのに先輩の鳶に油揚げをさらわれ、同期一同無念の酒を酌み交わしたのは今でも、ほろ苦い想い出や。
 わが社は、親会社の入社試験に落ちた者ばかりがコネで入ってくる子会社のひとつで、3流大学出身者の多い連中の中で、椎根さんは抜群の存在やった。
 それでも、工農装置関係には大学院卒の修士が多かったが、全員直ぐに退社し博士課程に進学しよった。辻本さんは京大原子炉、大木さんは福岡大学教授、東さんは九大教授、同期の小田は九大温泉治療学研究所に居とる。
 小田のやつ、会社勤め最後の出張で、熊本からの帰り道で酔払い運転で大事故を起こし瀕死の重傷を負ったが、温情ある温研所長・八田教授のはからいで転職を受け入れられた。別府に発つ小田を旧・博多駅に見送ったのは支店随一の美人の小田夫人とワイの二人やった。
 大阪で総合医学会が開催された昭和37年、ワイは最初の上司・本辰を入院先の結核療養所に見舞いに行った。
 鶏がらの様に痩せこけたノモンハンの勇士・本田少佐が「もう大阪支店からは、誰も見舞いに来なくなった。遠方から有難う」と涙を流した。
 人間、落ち目の時こそ心をこめて付き合うべきと、あらためて確信した。
 おやじが寮に帰ってくると土産話で賑やかになって、いつもの酒盛りが始まる。おやじが霧島の毛利さんに寝物語で、ワイがブラジルに移住する話をしたらしく、親戚がブラジルに居ると聴きつけた。
 ブラジルには身寄りのないワイには取って置きの朗報で、おもわずトンげんに抱きついた。とんげん?豚カツの原料。山下さんがつけた毛利さんの渾名やがな。
 絶好のタイミング。その親戚で30年ぶりで日本に来てる川西光永氏を紹介してくれたんで、大阪の姪と日本各地を旅行中だった川西さんと京都で会った。