仁科がお笑い三人組と呼んでた石井、沖田、南川の三課長がパブリカに乗って鐘紡の打ちっ放しで会社をサボって練習してた。この鐘紡の跡地が現在のキャナルシテイ。仁科と高倉は瞬く間に上達し、今でも二人でコースを回るゴルフ友達。寮の朝は先ずゴルフの素振りで始まり、縁側でおやじの叱声が飛ぶ。ワイと室はさっぱり巧くならなかった。
関学でピッチャーをしてた神戸営業所の西川が出張で来た際、キャバレー月世界に連れて行き中洲で飲んだ後、寮に泊め朝の素振り特訓にも参加させたら、おやじにどえらい剣幕で怒られた。
「出張費貰うて来てるやつを寮に泊めることない。あのがき九州はゴルフばっかりしとる云うて、ふれて回りよるぜ」と、おやじに云われた通りになった。
そやけど「やってないことを、やった云われたら腹立つけど、やってることをやった云われて何が悪い」と、おやじは実にあっさりしてた。
リーダーシップとはこういうものかと、後々までごたごた云わないおやじに器の大きさを感じた。
同期の河瀬直春(入社したときは加藤で、後に母方の姓を継いだ)が福岡に出張してきたが宿泊先を支店に予約させず、株主優待券を利用して呉服町にあった当時最高級の博多帝国ホテルにチェックインした。
おやじ以下我々と中洲で飲んだ後、ホテルに帰ったら、お公家さんの出で学習院では常陸宮の同級生やのに、人相の悪い河瀬は泥棒と間違えられたのかホテルの夜警に尋問を受け、おやじが身請け人になり釈放された。
なんでも、先祖が当時の東京市長・尾崎行雄に託しワシントンに桜の木を寄付したので、アメリカはニュー・ジャージー州に住む河瀬の弟のフランク氏が毎年春には桜祭りに招かれるとか。
自費でアメリカに出張してGEのレントゲン工場を見学して来たり、東京の紀尾井町一帯の大地主だった。没落貴族とはいえ、下々の仲間からは見当のつかない大型ヨットの持ち主でヨット焦けで真っ黒の顔。弟のフランクが、じゃがと呼んでいた直春君は先だって崩御、合掌。
フランク氏はニューヨークのウオドルフ・アストリアに宿泊中の細川護煕首相夫妻と親しく「・・・ちゃん」と呼び合っていたが共に上智卒。その大学は奇しくも嘗て河瀬家の所有していた土地に建っている。
大分でも福岡でも水連の理事をしてたワイは、別府温泉プールで東京オリンピックの金メダルを目指し練習してた田中聡子と和田彦旅館でデート。記者の目を避けるため汽車には乗らずワイの運転で北九州までドライブしたり、八幡では彼女の勤め先の八幡製鉄所正門前にあった木下産商の前で会い、スプローザ(密会)という名のバーで密会してた。そんなある日、黒佐監督から大事を控え、ご放念くださいと書いた手紙を受け取った。
東京オリンピックで、彼女は200メートル背泳ぎで自己最高記録で4位。
黒佐年明氏とブリッジストン・タイヤの青木行義監督(元・オリンピック選手)と別府の「三角野郎」で時々飲んだが、黒佐さんぐらい酒を、うまそうに飲む人を見たことがない。この人も若死にした。