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特集=日本では伝統と最先端が共存=数千年の文化が持つコントラスト=藤原敏彦ダニエル

輝かしい日本の歴史に学ぶ

ブラジルにおける藤原家と柳沢家の皆さん

 日本はあらゆる面において立派で魅力的な国です。数千年の伝統と知恵に、革新と先端技術が対照的に共存し、社会は名誉・義理・規律・完璧・他者や自然に敬意をはらい尊ぶ国です。
 アジア極東に位置するこの島国に訪れた人は、その歴史や芸術や文化、伝統行事、牧歌的な風景や古い歴史を持つ寺院や城に感銘を受けずにはいられないでしょう。
 日系二世の父と日本人の母を持つ私は、2002年に法科大学の交換留学制度で祖先の地を訪れる機会を得て、大変光栄に思っています。目的地は藤原家の祖父母の故郷で、明治維新発祥地とされる山口県です。
 60年前、母と柳沢家が移民船「さんとす丸」でおくった2カ月の旅を再現しました。旅の途中、日本人移民は戦争で荒廃した土地よりも良い生活を求め、ポ語の勉強や運動会をして時間を過ごしました。
 1908年6月18日に神戸からサントス港に「笠戸丸」が着伯し、ブラジル日本人移民は始まります。当初、初期移民は奴隷の代わりとしてコーヒー農園の労働者として入植しました。
 やがて聖州、ミナス・ジェライス州、パラナ州、後にアマゾナス州やパラー州にも広がり、野菜や青物の栽培なども行うようになります。

笠戸丸の出港風景

 しかし、伯国特有の熱帯性気候や病気、ポルトガル語、習慣や食生活など、母国とは大きく異なる環境に適応するために、彼らは大きな困難に直面しました。
 しかし知性、汗、献身、忍耐、規律、団結力をもって、日本移民は数多の困難を克服し、伯国でより豊かな生活を享受する様になり、農業や貿易の分野で徐々に頭角を現しました。
 日本政府の支援でコチア産業組合中央会やスール・ブラジル農協を設立し、じゃが芋や野菜などを生産しますが、その生活も楽なものではありませんでした。多くは1年360日、休日や祝日もなく、雨の日も働き、病気にもなれず、正月にしか休めなかったのです。

皇室の存在と神道というライフスタイル

 幸いに、私の日本への旅は飛行時間で24時間強。先達が経験した困難や船の長い旅をする必要はありませんでした。東京・羽田空港に降り立った時、私はさっそく祖先の地の魅力を感じ始めました。
 空港で列となり、電車や地下鉄は時間通りに動き、綺麗な道路や通り、整然とした交通、コンビニや親切な従業員など、全てがピアニストとメトロノームのように完璧に調和しているのです。
 日本史は何千年も遡り、西暦712年に編纂された古事記に記されています。私は子供の頃、母からイザナギ、イザナミ、アマテラスなどの伝説を聞いてきました。
 イザナギとイザナミは天と地を司る夫婦の神で様々な神や日本列島を創造しました。しかし、イザナミがカグツチを出産した際に亡くなり、動揺したイザナギは、黄泉の国から取り戻そうとするも叶わず、生者の世界に戻り海で身を清め、太陽の女神アマテラスを産みました。
 天皇は、天照大神の直系の子孫であり「天皇陛下」は「天の支配者」「神の天皇」を差します。その血統は2600年以上に亘り受け継がれ、地球上で最も長く続く王朝と考えられています。
 天皇は現在、政治的・経済的な権限を持ちませんが、日本社会において非常に重要な役割を担っています。神道の高僧として、毎日、祖先のため、日本国民の幸福と幸せのために祈らなければなりません。
 古くから天皇は皇室の紋章として「菊の御紋」を使用してきました。日本の様々な寺院や建築物でも見られる、16枚の花びらを持つ黄色または金色の菊の花と、その中心にある小さな球体が描かれた紋章です。
 神道は、直訳すると「神の道」を意味します。木や動物、山や川など、全てに神が宿っていると考えます。神や自然、祖先を崇拝し敬うことが特徴です。人々がお互いに、また自然と調和して生きることを原理とします。
 仏教やキリスト教などの他宗教とも平和的に共存しており、多くの日本人は神道と他宗教を矛盾なく同時に信仰していると宣言しています。日本で最も古く、最も信仰される宗教で、哲学、ライフスタイルのひとつです。
 日本には何十万もの神社や寺院があり、中には千年以上前に釘やネジを使わずに建てられた木造建築があります。柱や梁の金具はミリ単位で、水平かつ完璧に組み合わされ、非常に高度な建築構造になっています。
 寺や神社は、丘や山上などの自然の中に建てられ、環境と絶妙なバランスで調和しています。寺院や神社の中には定期的に、同じ材料を用い、当時と同じ方法で修復されるところもあります。

日本全国にある鳥居

 日本の象徴とも言える鳥居は、現在はブラジルの公園や広場など、世界各地で見ることができます。2本の柱を2本の横方向の梁でつないだ構造で、通常は木や石でできており、上部には白い紙で飾られたロープが編み込まれています。
 神社の入り口に設置され、神聖な世界と現世を隔てる象徴的な門です。鳥居をくぐると、神社の入り口には「手水舎」という清らかな水が湧き出る場で手を清めます。さらに進んで行くと、祈りや儀式を行う神聖な建物に到着します。
 この建物の前で、日本人は通常、手を2回叩き、胴体を45度に曲げて神に敬意を表してお辞儀をします。最初の建物の後ろには、より神聖とされる別の建物があり、「聖域」と呼ばれています。この建物への立ち入りは一般には制限されており、宮司にのみ許可されています。

全てが完璧に調和した国

 西暦8世紀に首都であった奈良は、数多くの仏教寺院や神社がユネスコの世界遺産に登録されており、平城宮跡や東大寺・法隆寺などがあります。また、日本では神の使いとされている鹿も奈良の代表的な魅力のひとつです。鹿は奈良公園周辺に生息し、観光客が鹿煎餅を与え、触る事ができます。
 奈良の隣には千年以上にわたって日本の首都であり、朝廷の所在地であった京都があります。京都は博物館や皇室の住居だった宮殿のほかに、何百もの仏教寺院や神社がある、豊かで歴史的な都市です。
 有名な建造物には清水寺、金箔で覆われた金閣寺、日本最大級の鳥居を持つ平安神宮など。秋には、「紅葉」と呼ばれる赤く色づく木の葉、桜が満開となる「花見」の時期には独特の色合いを醸し出しています。
 この他に日本には魅力的な都市が多くあり、各地に、歴史、文化、食などに特色を持ちます。息を呑む風景と冬の祭りが楽しめる北海道、天国のような浜がある沖縄、98年に冬季五輪が開催された長野、原爆で壊滅的な被害を受けた広島と長崎には平和記念碑があり、白く美しい姫路城がある兵庫など、さまざまな場所があります。
 これらの都市には、日本の電車や地下鉄を中心とした効率的な公共交通機関を利用することで簡単に旅する事ができ、その範囲、効率、組織において世界の基準となっています。
 鉄道網は国内のほぼすべての地域と都市に整備され、路線と時刻表が掲載された冊子も用意されており、旅行の計画を立てるのに役立ちます。予定通りに運行される様は目を見張るものがあります。1分の遅れも恥ずべき事として遅延の理由やお詫びの言葉を社車内や駅でアナウンスします。
 陽出る国では、すべてが完璧に調和し、細心の注意を払って行われ、献身的で完璧なのです。第2次世界大戦で壊滅的な打撃を受けたこの国が、GDP世界第3位の経済大国にまで復興を遂げたのはそのためです。

目を見張る産業発展

満開の桜の向こうに見える富士山

 トヨタ、ホンダ、日産、ソフトバンク、三菱、住友、ソニー、任天堂、パナソニック、東芝、ブリヂストン、味の素などの巨大企業の本拠地であり、ブラジルや世界の人々に知られている多くの企業があります。
 日本の首都・東京は「東の都」という意味です。現在首都圏全体で約3370万人の人口を抱える人口密度の高い地域です。かつては江戸と呼ばれていましたが、1868年の明治維新による遷都で東京となり、現在の天皇陛下とそのご家族が住む皇居があります。
 パリのエッフェル塔にヒントを得て作られた高さ333メートルの金属製建造物「東京タワー」は、東京の有名な観光地のひとつです。
 展望台からは、晴れた日には日本のシンボルのひとつである富士山を見ることができます。毎年、何千人もの人々が、日本人が「富士山」と呼ぶその姿を写真や芸術作品に収めています。
 特に山頂が雪に覆われているときには、何千人もの観光客が標高3776mの山頂に登り、雲の上から日の出や日本列島の風景を眺めています。 お台場は東京湾に浮かぶ人工島で、19世紀に海上からの攻撃から都市を守るために作られた小さな要塞の上に、土砂や焼却廃棄物を堆積させて作られたものです。
 お台場には、近未来的なフジテレビ本社、高さ115メートルの大観覧車、コンベンションセンターの東京ビッグサイト、日本科学未来館があり、2000年にホンダが製作した世界初の二足歩行ロボット「アシモ」が展示されています。
 自動車産業においては、ジャストインタイム生産、カンバン方式による在庫管理、生産・流通における厳格な品質管理などを特徴とする「トヨタ方式」と呼ばれる工業生産システムを開発し、ブランドや日本車全体に対する信頼性と顧客満足度を高めました。
 これらの手法は、公私ともに参考になると考えられ、世界中の企業で採用されています。お台場の建設は、日本の社会に本質的に結びついている価値観、すなわち「もったいない」「物を大切にする」という価値観を明らかにしています。
 日本は、数々の戦争や自然災害を経験し、飢餓や資源の不足に直面し、自分自身を含めた物事の可能性を最大限に引き出してきた国です。「もったいない」という概念は、物質的な問題にとどまらず、神道が説くように、人間の道徳的、精神的な側面にもつながっています。
 このように「もったいない」は食べ物の無駄遣いだけではなく、日本の社会では「もったいない」はゴシップや陰謀など、人生に何の付加価値もない会話に時間を費やすことだと考えられています。

今も残る侍の精神

 東京には、明治神宮をはじめとする数多くの寺院や神社があり、賑やかな都会の中の平和と静けさのオアシスとなっています。この神社には、樹齢1500年以上のヒノキで作られた高さ12mの巨大な鳥居があり、明治天皇が祀られています。
 日本人は他人の物、時間、仕事を大切にし、尊重することを尊びます。これらの考えに反した行動をとる人、つまり、無駄を省く行動をとらない人や、食事の際に皿の上に一粒の米を残す人には、罪悪感や悲しみがあります。
 19世紀末から日本は開国し、世界の大国へと変貌しました。1868年に始まった明治維新は、長州地方(現在の山口県)で吉田松陰や高杉晋作といった偉人が活躍しました。彼らは、当時の政府制度、教育、政治、経済、社会に関連して数多くの変革を推進し、日本は強力な工業化と近代化に向かって動き、日本を近代国家として、インドや中国などのアフリカやアジアの国々を植民地化したヨーロッパ帝国主義の脅威を取り除いていきました。
 明治維新以前の日本は、幕府による鎖国体制が敷かれていました。幕府は国内を統一し、内戦で分裂していた日本に平和と安定をもたらした偉大な功績があります。この時代の最大の功労者は、豊臣秀吉、織田信長、徳川家康などの大名です。
 この時代は、大名に仕える優れた戦士であると同時に、芸術や書道にも精通していた武士が、最も優れた身分の一つでした。武士は非常に規則正しい生活を送り、規律、忠誠心、名誉、勇気、祖先への敬意などを教えた武士道の倫理規定を厳守していました。
 失敗したり、不名誉な行為をした場合、武士は自ら命を絶ちました。切腹、つまり小刀で腹を切り、血を流して死ぬという崇高で苦しい儀式です。武士は、自分以外に命を絶つ価値のある者はいないと考え、切腹は名誉を回復し、精神を高揚させる手段であると考えていました。
 作家の吉川英治氏が執筆した『武蔵』は、武士である宮本武蔵の物語と価値観を描いた世界的に有名な大河小説です。日本の文学は非常に豊かで、古くはは8世紀にさかのぼります。日本の神話や伝説が語られた「古事記」や、古代の歴史書である「日本書紀」があります。
 有名な古典作品は、11世紀初頭に書かれた「源氏物語」です。また、世界的に有名な芭蕉等で知られる「俳諧」では、伯人も触発されて俳句を詠み始めました。
 また、医学、物理学、化学、工学、数学などの科学分野でも日本は傑出しており、いくつものノーベル賞受賞者を排出しています。
 識字率もほぼ全人口に達しています。これらはすべて、多くの研究、献身、忍耐の結果です。この日本人の行動様式をよく表している表現があります、「がんばれ!」です。つまり、自分のベストを尽くすことです。

日本の伝統や習慣を引き継ぐ東洋街

お神輿

 日本では相撲について学ぶこともできます。相撲は、2000年以上前に古代神道の儀式から始まった日本の典型的な伝統的スポーツで、相撲取りは相手を土俵から押し出したり、地面に触れさせたりしなければなりません。試合前には、祝福された水で口を清め、手を叩き、手足を上げて儀式を行い、塩を投げて土俵を清めるという長い入場儀式があります。取り組み自体は数秒程度で終わることが多いです。
 力士は朝は、4時、5時に起きて家事をし、稽古、食事、着替えなど厳しい生活を送っています。また、日本には多くの伝統行事があります。
 その一つが「七五三」です。3歳・5歳・7歳の子供を連れ、寺や神社で感謝の気持ちを伝え、健康や成長を祈ります。3月3日のひな祭りは、桃や桜の花が咲き始める頃に、ひな人形を川の流れに投げ入れて厄を落とす習慣がありました。 この日は、米を発酵させた「甘酒」や「桜餅」などの食べ物で祝います。
 また、日本古来の祭りには、神道の祭壇である「お神輿」があります。「お神輿」とは、神々や神聖なものを運ぶための祭壇のことで、参加者が肩に担いで、「ワッショイ!」という掛け声を発します。この掛け声は、街中の行列にリズムと力を与えるためのものです。お神輿は金で化粧した上部に鳳凰をあしらったものです。ブラジルでは、サンパウロ市のイビラプエラ公園の日本館で見ることができます。
 しかし、日本人が祝う最も伝統的な行事は、間違いなく「お正月」です。1年の最後に子供からお年寄りまで、家、道、広場、学校、職場などを清掃し、翌年にむけ全てをきれいにします。お正月は、日本酒を三段重ねの盃を3回に分けて飲む「お屠蘇」、各家庭や地方によってレシピが異なるお雑煮で祝います。お雑煮の主な材料の餅は、炊いた餅米を臼や杵に入れ、木槌で生地が均一になるまで叩く米団子です。
 ブラジルは世界で最も多くの日本人が移民しており、主にパラナ州、南麻州、パラー州、サンパウロ州の各地域に約200万人がいます。これらの移民がもたらした影響は食やマンガ、柔道、空手、野球などのスポーツ、文化、芸術、教育など、ブラジルに根付いています。
 サンパウロ市には、日本国外で最大の日本人コミュニティが集中するリベルダーデ区があります。ガルボン・ブエノ街、グローリア街、エステダンテス街には、日本に関する店や書店、日本食店が沢山あります。週末には、伝統的な「フェイリーニャ・ダ・リベルダーデ(東洋市)」が開催され、東洋料理やブラジル料理、手工芸品などの屋台が並びます。

ブラジルで活躍する日系団体

 またサンパウロ市には、ブラジルで日本文化の保存と普及を促進することを使命とする、日系ブラジル人コミュニティを支援する重要な「ブラジル日本文化福祉協会」があります。
 文協は1954年の日本人移民50周年を記念して設立されたもので、日本人移民が集まり、移民が直面する言語や伝統、伯国での問題を互いに助け合う事を主軸としています。現在、文協には、日・ポ語含め6万冊の蔵書を持つ図書館、9万7千点以上の身の回りの品々が展示される日本移民史料館もあり、月曜日から土曜日まで、メトロのサンジョアキン駅近くのサンジョアキン街381で見学できます。
 文協はイビラプエラ公園内の日本館の運営も行っています。この日本館は、日本政府と日系ブラジル人コミュニティが、京都にある皇室関連施設の桂離宮に着想を得て建設したものです。
 県連(ブラジル日本国都道府県人会連合会)と県人会は、ブラジルへの移民を支援し、統合するという移民プロセスにおいて非常に重要な役割を果たしています。
 現在、県連は、イミグランテス会場で毎年開催される「日本祭り」の運営を担当しています。このイベントでは、日本の芸術や文化に関するワークショップ、生け花、茶道、コンサート、日本の47都道府県の代表的な料理などさまざまな活動が行われています。
 日本政府は移民の努力を評価し、パウリスタ大通りに「ジャパン・ハウス」を立ち上げました。この場所は、千年の文化から革新的な視点まで、日本のあらゆる特徴を普及するため建てられました。英国のロンドン、米国のロサンゼルスと並んで設置された一つです。
 堂々とした建物は、ヒノキを使った建築正面と、手漉き和紙を貼ったメッシュパネルで構成されており、日本の伝統的な技術による洗練された仕上がりを見学・体感することができます。一般の訪問者にも開放されており、展覧会やイベントが開催されているほか、重要な書籍や美術品のコレクション、レストランやカフェテリアもあります。
 最初の日本移民が到着してから1世紀以上が経過していますが、日本人が先祖代々受け継いできた何千年もの技術や振る舞いから、私たちが学ぶべきことはまだまだ沢山あります。伯国と日本は一緒に進化していくことが多いのです。
 2022年が私たち伯人にとって大きな進化の年になることを願っています。日本人が言うように「新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくおねがいします。頑張りましょう!」と言い合いましょう。

日本におけるフリーメイソンの歴史を振り返る

 近代以前、日本人は事実上隔絶状態で独自発展してきました。西洋人が最初に日本に来たのは、1543年に鹿児島に属する離島の種子島に上陸したポルトガル人でした。その後、他国からもやってくるようになりました。外国からの影響が大きくなることを懸念した幕府は1639年に日本を鎖国し、1854年まで続きました。
 この時代、日本との取引が許されていたのは、オランダのプロテスタントとキリスト教を信仰していない中国人だけでした。日本を最初に訪れたメイソンは、オランダ東インド会社に勤務していた1772年にバタビアに入国したアイザック・ティッチンだと考えられています。
 日本には1779年、1781年、1783年の3回行っています。彼は長崎のオランダ商館を率い、多くの日本の高官や西洋の知識を持つ日本の学者たちと親交を深めました。
 1819年に出版された『日本の葬式と結婚の儀式』、1820年に出版された『日本の君主の歴代王朝に関する記憶と逸話』、1822年に出版された『日本の絵』は、18世紀後半の日本とその人々、習慣を知る上で貴重な資料です。
 鎖国状態だった日本ですが、外国の船は定期的に来ていました。時を経て、政府は開国し、外国勢力と条約を結びます。1863年に日本政府が横浜の英仏軍の居留地を整理した際、日本初のメソニック・ロッジが導入されたのです。アイルランドのスフィンクス・ロッジNo263という軍用ロッジが来日しました。
 横浜では、ロッジの会合が開かれ、民間人の会員が入会しました。しかし、軍のロッジであるため、日本での活動を長く続けることはできず、1866年3月に最後の会合を行いました。
 一方、横浜に住む兄弟たちは、自分たちのスコットランドのロッジを作ることが望ましいと考え、1866年に地元で最初のロッジである横浜ロッジが最初の通常会議を開催しました。
 1899年に治外法権が廃止されると、兄弟たちは日本政府との間で、会員を外国人に限定し、集会を派手に行わない限り、友愛会の活動を妨害しないという紳士協定を結んで集会を行いました。当時の教団員は、日本の近代化に貢献しました。
 海外から教団に参加した日本人もいました。オランダのライデン大学の学生、西周(にし・あまね)氏と津田真道(つだ・まみち)氏の姿もありました。二人とも1864年にライデンのラ・ヴェルチュ・ロッジNo7に入門しました。外交官として活躍し、後に政治家となった林董伯爵は、イギリス滞在中に騎士団員となりました。
 1902年に日英同盟が締結され、彼は日本を代表してその条約に署名した。1903年2月にエンパイア・ロッジNo2018に入門しました。林は1904年にロッジのヴェネラブルになった。日本初の駐英大使です。その頃、アメリカやフィリピンなど、他の国でも日本人が入門していました。戦争の時代は大変な時代でした。
 1940年初頭、反主流派の動きが活発化したため、すべてのロッジは活動を停止しなければならなかった。戦後は活動を再開しました。イギリスの一つのロッジとスコットランドの二つのロッジが残った。
 グランド・ロッジ・オブ・ザ・フィリピンズは、1947年から1956年の間に日本に進出し、16のロッジが設立されました。連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー将軍は、メイソンとして日本でのメイソンの活動に非常に賛同していた。
 フリーメイソンへの入会は、徐々に日本人にも認められるようになっていった。1957年1月16日、ロッジNo134は、日本のグランドロッジ結成のための大会を開催しました。1957年1月26日には地区グランドロッジ会議が開催され、2月16日には東京メーソンビルで大会が開催されました。
 この大会では、出席した11のロッジが満場一致で承認しました。また、同年3月16日に開催された大会では、さらに四つのロッジが全会一致でこの決議を承認した。1957年4月のフィリピン・グランドロッジの年次総会で、日本のグランドロッジに承認を与え、1957年5月1日に設立されました。

最終考察:ブラジル・インターナショナル・ロイヤル・オーダー・オブ・ヘレドム・オブ・キルウィニングのイラストリアスグランドマスターであるワグナー・カパレリ氏は、我々がメイソンリーとの日本の結合を熟考したこの素晴らしい記事の中で、メイソンリーとの愛情、協力、連帯について日本の家族に感謝しています。
 関係者の皆様、特に親愛なる兄弟子ダニエル・フジハラ氏、フジハラ氏と柳沢氏のご家族には、素晴らしい仕事をしていただき感謝しています。宇宙の偉大な建築家は、私たちにこのような楽しい仕事をさせてくれ、日本の人々のような崇高な国と結びつけてくれました。