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《記者コラム》知られざる日本の国際貢献=ブラジルでのポリオ麻疹撲滅に

主催者と講演者の皆さん(右が本田イズム実行委員会)

救済会が感染予防イベントをする意味

 「第2次大戦中に交換船が来たとき、『移民が残るんだから自分も残る』と言って日本人救済会を作った宮越さんがいてくれたから、今のような憩の園があります。原点を作ってくれたのは宮越さんだと改めて感謝の気持ちがわいています」
 元救済会会長の吉安園子さんがそう言うのを聞きながら、会場の特設スタジオに並ぶブラジル社会の有名人の顔を見て、移民史の奥深さと時代の移り変わりの激しさをしみじみ感じた。
 宮腰千葉太氏(1892―1972年)は元外交官で、退官後に海外興業株式会社サンパウロ支店長となった。1942年1月にブラジルが枢軸国と国交断絶をした際、外交官は交換船で本国に引き揚げた。だが、宮腰氏は妻子を交換船で帰したが、自らは「自分たちが送り込んだ日本移民が残るんだから」とその保護のために残った。
 同年、渡辺マルガリーダ氏らと共に救済会の前身「サンパウロ市カトリック日本人救済会」を設立。同救済会はキリスト教会による庇護の下、戦時中でも唯一活動を続けられる日系団体として、日本移民の収監者への差し入れ、貧窮者の援助などあらゆる救済活動を一手に引き受けた。
 いわば、本来なら総領事館の邦人保護班がするべき仕事を全て行っていた〝民間総領事館〟だった。戦時中、救済会による支援を受けた日本移民は数万人もいたと言われる。サントス強制立退き事件だけでも6500人の日本移民が差し入れなどの援護を受けた。
 戦後、サンパウロ日伯援護協会などの各福祉団体が誕生する中で、その事業を高齢者福祉に絞り、移民50周年(1958年)の機に日系高齢者福祉施設「憩の園」を設立した。
 その「憩の園」が11月28日、感謝ライブ『みんな一緒にコロナに備えながら元気よく生きましょう』を開催した。サンパウロ市ニッケイパレスホテルを会場に、ユーチューブ生配信が行われ、日本語同時通訳が付いた。
 今回の感謝ライブを会場で見た招待客は200人余り、ユーチューブでオンライン視聴した人は同29日時点でポルトガル語版3634人(https://www.youtube.com/watch?v=TNJrF854SVY)、日本語版1009人(https://www.youtube.com/watch?v=cpWkoNWOAF4)だと言う。
 27日と28日には同ホテルの伯式地上階サロンで北海道協会、埼玉県人会、東京都友会、愛知県人会、大分県人会が「5郷土料理販売」を行い、お客さんが計1600人ほども訪れた。ブラジル健康体操協会や平田ノブヒロによる歌唱、ヴィニシウス・サダオの三味線伴奏、心響太鼓による演奏で盛り上げた。

そうそうたる有名人が一肌脱ぐ

マルシオ・ゴメス氏

 ライブの司会進行を務めたのが、なんと元グローボTVアナウンサーのマルシオ・ゴメス氏だ。現在はCNNテレビ局のアンカーをしている。2013年からグローボTV特派員として東京に5年間も駐在し、本国にニュースを伝えた日本事情通でもある。
 他にも、ブラジル社会の第一線で活躍する著名な日系人やブラジル人医師5人が座談会に登壇し、感染者や死亡者が減少傾向にある今でも感染予防を継続する必要性があることや、コロナ禍明けの生活などを中心に話をした。

本間氏

 中でも「世界のワクチン界で最も影響力を持つ50人」にブラジル人で唯一選ばれた権威ある研究者、本間晃氏(あきら、二世、82)なども、リオからわざわざ参加した。本人に聞くと、生まれはサンパウロ州奥ソロカバナのプレジデンテ・ウエンセスラウで、パウリスタ(聖州人)だ。USP生物学部で博士号取得。
 「でも、1964年からリオに住み始め、1977年からフィオ・クルスに務め始めた。だからもうカリオカだ」と笑う。フィオ・クルスはリオに所在する連邦政府の生物学研究所で、南米におけるワクチン生産拠点として有名。今回のコロナ禍でもアストラゼネカ社のワクチンのIFA(原液)を輸入して分包する拠点となり、現在、原液生産まで業務拡大を図っている。
 そんな衛生面から国を支える研究施設の理事長(1989―90年)も、本間氏はかつて務めた。現在は顧問となっているが、同研究所を代表する顔の一人であり続けるから、5年前に「世界のワクチン界で最も影響力を持つ50人」にブラジル人で唯一選ばれた。
 本人に選ばれた感想を聞くと「なぜか私が選ばれたが、あれは仲間が優しいから。別にあれは私一人の仕事ではない。ブラジルのワクチン研究者には、もっとすごい人がたくさんいる」と謙遜した。「このパンデミックでは、我々の仕事の重要さが改めて認識されたことに関しては良かったと思っている」とも。
 いままで移民史や邦字紙上にまったく現れてこなかったが、傑出した日系人がまだまだ隠れていると痛感させられた。

キフリ氏

 他の登壇者としては、保健省の国家予防接種計画の委員をするレナト・キフリ氏、オズワルド・クルス財団の研究者にしてブラジル肺炎・肺結核学会の次年度会長であり昨年のオ・グローボ紙が選考する「2020年の功労者」にも選ばれたマルガレッチ・ダウコウモ氏、ラ米小児感染症学会代表のマルコ・アウレリオ・サファジ氏、ブラジル伝染病学会の小児感染症部会コーディネーターの大塚マルセロ氏など、頻繁にテレビに登場する有名人ばかりだ。
 そのようなメンバーを呼んで、憩の園が企画・運営する形で、オンラインイベントが開催されるようになるとは、宮腰氏もゆめゆめ思わなかったに違いない。
 こんなイベントが可能になったのは、日本国外務省が海外在留邦人・現地日系人コミュニティへの感染拡大防止やビジネス環境作りを目的に実施している「海外在留邦人・日系人の生活・ビジネス基盤強化事業」に企画を申請して認可されたからだ。

コロナで父を失った本田実行委員長

 当日の挨拶で、感謝ライブ実行委員長の本田イズム救済会副会長は、「父は今年の9月に91歳でコロナによって亡くなりました。パンデミックになってから父はずっと家から出ず、ワクチン接種も2回していました。父から『そろそろ外に出ても良いか』と聞かれた矢先のことでした。父の死からコロナにはまだまだ解明されていないことが多くあることを痛感させられた。奇しくも父の死の1週間後に、外務省からこの感謝ライブの企画が承認されたとの連絡を受けた。これは、もっと世の中にコロナの危険性を知らせるべきだという父からのメッセージだと感じました」との悲しい体験を吐露した。

サファジ氏

 サファジ氏は「普通は実用化するまでに5年10年かかるワクチンが、今回は1年でできたことを不安視する声を聞く。だが、今までに同類のコロナウイルスは2回パンデミックを起こしており、すでにかなり研究が進んでいた。だからその土台の上に立って、今回は超特急で新しいワクチンを作ることができた。ワクチンは感染を完全に防ぐことはできない。でも重症化を防ぐという意味では高い効果がある。必ず接種完了、補強接種を受けることを強くお薦めする」と強調した。
 本間氏は「今回ブラジルではワクチン原液(IFA)を輸入しなければ生産できなかった。これは国の投資が足りなかったからだ。ワクチン開発には政府のまとまった資金投入が不可欠。米国政府はワクチンに莫大な投資をしたからあんなに早く開発できた。パンデミックにおける政策不在が今回のワクチン原料外国依存を起こした」と厳しく指摘をした。さらに「このパンデミックは世界中の人がワクチンを打ち終わらないと終わらない」と述べた。

大塚氏

 大塚氏は「パンデミックはまだ終わっていない。野外で密集していなければ、マスクを外すことも考えられる。だが屋内やメトロ、バスではまだマスクは必須」と、コロナ禍収束を先取りする風潮に釘を刺した。
 ネット視聴者からの「オミクロンにはどの程度注意すべきか」という質問に対し、マルガレッチ氏は「現時点ではよく分かっていない。でも、それほど心配するものではないと思う。ウイルスは常に変異株を発生させる。それ自体、自然なことで、これからも続くこと。変異株を心配するよりも大事なのは、ワクチン接種を完了させること」と呼びかけた。
 「日本のようにパンデミックの時に限らず、普段からマスクをする習慣がブラジルでも広まると思いますか」との質問に対し、本間氏は「日本はインフルエンザの流行が毎年起きるから、マスクを使うのが習慣化している。ブラジルは気温が高く、地域によっては40度にもなるので夏にマスクをするのは辛く、習慣化するのは難しい」との見方を示した。

マルガレッチ氏

 マルガレッチ氏は「たしかにそうだが、マスクをする習慣は素晴らしいこと。とくに飛行機の中では必要。歯磨きと一緒にマスクは同じくらいに大事。これはブラジルでも文化になってほしい」とつけ加え、昨年来、コロナ以外の呼吸器疾患一般の感染率が非常に低く抑えられていることを強調し、マスクの効用を高く評価した。

JICAがワクチン製造の支援した歴史

 本間氏は「このパンデミックで生まれた技術や衛生に関する一般常識は、次のパンデミックにも使える。とても貴重なもの」と前向きな評価をし、次のように日本政府の貢献を高く褒めた。
 「私がドイツ留学を終えて、フィオ・クルスに入った頃、生産されているワクチンはたった1種類、研究されている医薬品も当時は獣医学関係が中心だった。だが、1980年、JICAの協力で大阪大学などと共同研究をし、生産設備を支援してもらった。そこでブラジルでは初めて本格的なワクチン量産体制が作られた。JICAが背中を押してくれたおかげで、今では10種類以上のワクチンを量産している。私が務め始めたころの研究所は小さな所帯だったが、今では2千人を越える施設に育った。その拡大するきっかけがJICAだった。ブラジル国全体が裨益する重要なワクチン研究支援だった」と日本政府の協力を高く評価した。
 1990年のJICA報告書『ブラジル連邦共和国ワクチン製造プロジェクトアフターケア調査報告書』(https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/10913432_01.pdf)によれば、1973年に「国家予防接種計画」を制定した軍事政権が、日本政府に対して麻疹とポリオ撲滅のために両ワクチンの自国生産体制および品質管理体制整備に関わる技術能力の向上支援を要請した。
 これを受けて日本は1980年8月にワクチン製造に関する討議議事録を署名・交換し、以後4年間に渡る技術協力を行った。この間、日本は3人の専門家派遣、17人の研修員受入れ、総額約6億4400万円の機材供与を実施した。
 90年の時点で、日本の協力により麻疹ワクチンを年間約2千万人分、ポリオワクチンを約2600万人分生産するようになっていたと言う。
 同報告書35頁によれば《同研究所で生産された各種ワクチンの販売(衛生省買い上げ)に伴う収益の30%が再び直接同研究所に還元されることとなり、本年度よりこれによる再投資が可能となった》と書かれている。
 「魚を与えるのではなく釣り方を教えよ」という格言があるが、まさにそれだ。日本はワクチンを与えたのでなく、ワクチンの作り方を教えて設備を与えて、自分で製造できるようにした。その売り上げを、研究所が自己再投資することにより、新しいワクチンを開発してどんどん拡大してきた。その発端に日本の国際協力があった。
 同研究所は1900年、高名なブラジル人細菌病理学者オズワルド・クルスを顕彰するためにその名前を冠して創立し、黄熱病、天然痘、泡沫状ペストなど熱帯医学分野で先進的な研究を行い、今ではラテンアメリカを代表する研究機関になっている。
 今回の感謝ライブでは、あまり知られていなかった医療分野における日本政府のブラジル支援の歴史も垣間見ることができたのは大きな収穫だった。(深)