「こんなの見てたら、胸が痛くなるわ」――10月末、東洋街の庶民御用達のスーパー、エストラに買い物に行き、店頭にあったその週の特売品チラシを持ち帰って、妻に渡した。彼女がいつものように嬉々としてチラシの物色を始めた矢先、そう言って胸を押えた。
何ごとからと思って尋ねると、「見てよ、このチラシ。もう誰かが使ったヤツで、買うものにボールペンで印をつけてあるの。それが全部3レアル以下の品物ばかり。きっとボルサ・ファミリアとかもらっている人だわ」とつぶやいた。
チラシをよく見てみると、確かにビスケット・アドリア(1・25レアル2個)、即席麺レナータ(0・99レアル2個)、コーンフレーク・ヨキ(2・19レアル)など、3レアル以下の商品ばかりにボールペンで印が付いている。合計しても7レアル(141円)程度だ。
ふと、これが1日分の家族の食事ではないか――そんな想像が頭をよぎった。その時のボルサ・ファミリアは200レアル程度であり、それを30日で割ると7レアルになるからだ。
そんな家族が同じスーパーで買い物をしているのかと思うと、たしかに少々胸が痛くなる。
今年の9月には、12カ月の累積インフレがついに10%を越えた。その結果、庶民向けスーパーでは食料品すらまともに買えない家族がどんどん生まれている。
昨年3月からのパンデミックで、庶民救済のために緊急支援金の給付が始まり、マネーの供給量が一気増えた。同時に為替の大変動、製造業の休止などによって商品の供給が一次的に止まり、部品の供給もアンバランスになって、一気にインフレが加速し始めた。
インフレが加速するということは、通貨の価値が下がるというコトだ。月給2千レアルをもらっている人が、年10%のインフレの中で調整をしなければ、翌年の実質給与は1800レアルになる。交通費や食料品など物価が一番インフレの影響を受けやすいから、金持ちよりも貧乏人の方がインフレのダメージは強烈になる。
今年50%上がったガソリン
インフレの中でもガソリンの値上がりがすさまじい。国家原油庁(ANP)の発表によれば、1月から12月第1週までに、なんと約50%もあがった(https://oglobo.globo.com/economia/preco-da-gasolina-sobe-quase-50-entre-janeiro-dezembro-diz-anp-25314604)。これは昨年来のレアル安に加え、原油の国際価格上昇が重なって起きた。ガソリンがあがれば輸送費を底上げし、全ての価格が上がる。
食料品の値上がりを端的に示すのは、基礎食料品セット(cesta básica)の値段だ。これは連邦政府が1938年に制定した、成人一人が健康を保つのに必要な栄養やカロリーを摂取できる1カ月分の食料セットだ。
アウシリオ・ブラジルが11月に224レアル支払われ、12月から400レアルになった。だが、27連邦自治地区の州都でその値段で同セットが買える場所は一つもない。最低価格が北東伯セルジペ州都ピアウイの464レアル、最高値はサンタカタリーナ州都フロリアノーポリスの700レアル。後者ではほぼ半分しか買えない。
図1の通り、もっとも広く使われているインフレ指数である広範囲消費者物価指数(IPCA)は、昨年5月時点では1・88%まで下がっていた。そして同年3月までは1ドル4レアル前後だった為替が、同年4~5月にかけて5レアル後半まで急落。この為替変動を受けて、輸入品物価が急騰を始めた。
同年4月から600レアルの緊急支援金の支給が始まり、同年6月からインフレ率が急上昇を始めていた。昨年11月には目標値3・75%を越えて、インフレの勢いが収まらないのに、中銀は「一時的なもの」と言い続けて、経済基本金利(Selic)を2%に維持し続けた。
Selicを上げると国債などに投資資金が乗り移るので、ゲデス経済相などの意を受けて、株式市場などに資金が集まったままにするように2%のマイナス金利を続けたと言われている。
中銀独立後にSelic急上昇始まる
その中で、中銀独立案が今年2月に連邦議会で可決された(https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/210212-13brasil.html)のを受け、中銀の権限が大幅強化され、連邦政府の意向に左右されない存在になった。
中銀総裁や理事らが決めたSelicなどのインフレ対策が、連邦政府から不適切だと判断されて解任されることを防げるようになった。その途端、2月にIPCA目標値上限5・25%を越えたことを受け、Selicは3月に2・75%に上げられた。
そこにラニーニャ現象などが原因とされる6~9月の記録的な少雨・水不足から電力危機が叫ばれるようになり、電気料金が一気に上がった。ガソリン、ガスに続いて、これがインフレに追い打ちをかけた。
そのためSelicを上げるスピードが加速し、10月からは1・5%ずつ3回連続で上げ、12月には9・25%にまでなった。
さらに来年2月の通貨審議会(Copom)ではもう一度上げて、10・75%にすることまで予告した。その次の回では11・25%にするという予測も金融関係者からは出ている。
11月時点の12カ月累積IPCAは10・74%となり、直近10年間で最も高かった2016年1月の10・71%を越えた。だが当時2015年8月から16年9月までSelicは14・25%を維持して、きっちりと押さえ込んだ。今回はまだ9・25%でマイナス金利のままであり、定石を外している。このやり方では短期間でインフレを押さえ込むのは難しく、来年もしばらく今以上の高金利を続ける必要があるとささやかれている。
中銀は現在のところ、図1のグラフにあるように、インフレは今後、下降曲線を描くという超楽観的なシナリオになっている。覚えている人も多いだろうが、中央銀行が2月の「フォーカス」時点で、年末の12カ月累積のIPCA予想値を3・62%と発表していた。でも現実は10・74%だ。もう誰も中銀の楽観予測など信じない。
本来、中央銀行が持つ最も基本的な役割は「物価の安定」「金融システムの安定」だが、実際はレアル暴落を容認し、インフレ対策が後手後手に回っており、批判が集まっている。
そのように基本的な役割を果たしていないにも関わらず、熱心にPIXやらデジタレアル中銀通貨、オープンバンキングなどのハイテクな取り組み、目立つ部分の仕事だけは一生懸命進めている。そのことにクビをひねる金融関係者も多い。
気になる日本のインフレ指標の奇妙さ
ブラジルのインフレを論じる際に、常に気になるのは日本の指標との違いだ。コラム子は経済の専門家ではないので、ただの素人考えかもしれないが、奇妙に感じる部分がある。
と言うのも、日本で広く使われている「消費者物価コア指標」では、驚くことに食料品やエネルギーの価格変動が省かれているのだ(https://www.boj.or.jp/research/wps_rev/rev_2015/rev15j11.htm/)。
省かれている理由は、「消費者物価の動きから様々な一時的要因の影響を取り除いた」ものにするためだと言う。だから為替や気候などの要因に左右されやすい食料品やエネルギーが入らない。だが、それで本当に消費者が体感するインフレが測れるのかと疑問になる。食料品を買わない人もいなければ、ガソリンや電気を使わない人もいない。本来、もっとも身近な生活必需品の物価がインフレ指数から省かれているのだ。
ブラジルのIPCAにおいてもっとも変動するのがこの部分であり、だからすぐにSelicを上げてインフレ対策をする。だが、日本ではいくら食料品やエネルギーがあがっても「インフレになった」とは言わず、いまだにデフレだと言っている。
それ見ていて、本当は「言えない」のではないかと感じる。なぜかと言えば、日本では金利が上げられないからだ。もしも日本で金利が上昇したら、国債の利払いが大変なことになる。
日本では1999年から「ゼロ金利政策」が導入され、日銀は「異次元の量的緩和政策」を継続してきた。過去20年以上に渡って低金利政策を貫いてきた。マネーをジャブジャブにして景気浮揚を試み続けてきた、とされている。
ごく単純化して言えば、こうだ。日本は歳入の3分の2分の税収しかない。3分の1は公債金(借金)に依存している。公債費は大量の国債を毎年発行することによって埋めてきている(https://www.mof.go.jp/zaisei/current-situation/situation-debt.html)。国債の大量発行ができなくなれば、歳出を大幅削減する必要が出てくる。それをやりたい政治家はいない。
国債が発行できているのは、「デフレだから景気発揚のためにゼロ金利を維持する必要がある」と日銀が発表しているからだ。そして量的緩和ができなくなるのは、インフレが始まった時だ。
インフレをおさえるために政策金利を上げれば、国債の利払い費も増える。日本は国債発行額が多いから、1%、2%上がるだけで利払い費の増え方も尋常ではない。
そこから、逆に発想すれば、恐ろしいことが思い浮かぶ。
インフレが上がってしまったら、いまの国債大量発行を前提にした国家運営が続けられなくなる。だから「インフレが始まった」とは口が裂けても言えない。それなら「インフレではないことにしよう」と考え、指標の方をいじって食料品やエネルギーを外し、「インフレではありません」と発表しているのではないかと勘ぐってしまう。
これはもしかして日本だけではない。パンデミック対策の名目で貧困者支援や企業支援のお金がばらまかれてマネーが増大し、世界中の株価が上昇すると共にコモディティに投資資金が流れ込み、インフレが急上昇している。だが世界の中央銀行の中には、大量の国債を抱える米国やEUを始め、金利を上げたくても簡単に上げられない状況になっているところが多いかもしれない。
12日付エスタードによれば《ゲデス経済相「世界の中銀はハンドル握ったまま居眠りしていた。ブラジルは最初に目を覚ました」》(https://istoe.com.br/guedes-bcs-estao-dormindo-no-volante-no-mundo-inteiro-nosso-acordou-primeiro/)と、Selicを上げている状況を自画自賛している。
もしそうなら、とてつもなく不健全な財政状態だ。それに比べれば、インフレが上がっても柔軟に対応してSelicをバンバン上げられるブラジルは、経済は不安定だが財政は健全だと言えるかもしれない。これは80年代、90年代のハイパーインフレから学習した貴重な経験だろう。
景気後退からスタグフレーションに
インフォマネー12月9日付《スタグフレーション:良くない名前、だが必要》(https://www.infomoney.com.br/colunistas/convidados/estagflacao-nome-feio-mas-preciso/)には、ロベルト・ドゥマス・ダマスによる厳しい予測が書かれている。
ブラジル第2、第3四半期連続してマイナスのPIBを記録したことにより、公式にリセッション(景気後退)に突入した(https://www.nikkeyshimbun.jp/2021/211203-13brasil.html)。
景気を浮揚するには金利を下げてマネーの流通を円滑にすることが常套手段だ。だが、今のように高インフレ下では高Selicで対抗せざるを得ず、金利引き下げは望めない。つまりダマスの予測によれば、来年は高金利による低成長下での高インフレが続く可能性が高い。ただのリセッションからスタグフレーションに突入するのではという予測だ。
スタグフレーションとは「不況にもかかわらず、世の中のモノやサービスの価格(物価)が全体的に継続して上昇すること」だ。
ダマスは、このように論ずる。《黙示録の騎手になりたいわけではありませんが、来年はさらにインフレで労働者の収入の一部が奪われ、金利が上昇し(2022年の第1四半期末には少なくとも11・25%に達するはずです)、軽薄な非難や評判を落とそうとする乱暴な選挙が行われる中で、悲観的な成長しか期待できないでしょう。これらはすべて、新規投資の明らかな延期と、消費者心理の低下につながります。
来年は不況の一途をたどることになります。最低でもGDPマイナス0・5%になると予想します。GDPを構成する各要素を需要側から分析すると、どのエンジンが経済を牽引するのかがわかりにくい。しかし、私の予想が大きな勘違いであることを願っています》
来年選挙がある以上、インフレ収束は難しい。インフレ対策の王道はSelicを上げることと、通貨の流通量を減らすことと言われる。だが、連邦政府と連邦議会は結託して、事実上、歳出上限の枠を外すためにPECプレカトリオを可決した。
ジウマ政権は、政府が支払うべき支出をこっそり翌年以降に繰り越す会計粉飾をしたことで財政責任法に問われて、罷免された。今回は、同じをことしても罷免されないように憲法の方を改正した形だ。そして歳出上限が外れれば、マネーの流通量は増え、さらにジャブジャブになる。明らかにインフレ要因だ。
それに加え、9月頃から繰り返しニュースになっている連邦貯蓄銀行による貧困者向け特別貸し付けクレジットの話がいよいよ本格的に動き始めるようだ。
オ・グローボ紙サイト5日付でラウロ・ジャルジンは《ボルソナロ再選のための政府の新しい武器、カイシャを通して2千万人にインパクト与える》(https://blogs.oglobo.globo.com/lauro-jardim/post/nova-arma-do-governo-por-meio-da-caixa-pela-reeleicao-de-bolsonaro-impacto-sobre-20-milhoes-de-pessoas.html)と報道した。
すでに9月に1千レアルまでの貧困者向けクレジットを実施していた。それの拡大版を早ければ今年、遅くとも来年早々に実施しようとしているようだ。しかも金額は4千レアルまでと高くなり、2千万人というとんでもなく大きな規模になると予想されている。これは連邦政府による、融資の形をとった実質的なバラマキではないかと想像される。
ボルソナロが2018年に当選した際、5779万6972票の得票だった。2千万人に裨益するクレジットとなれば、まさに選挙を左右する可能性がある。その結果、さらにマネーはジャブジャブになり、インフレが進む可能性が高い。
ただでさえゲデス経済相はボルソナロのいいなり状態だ。選挙の年に、痛みが伴うまともな経済政策ができるとは思えない。(敬称略、深)