大きな池のほとりに立つ洋風豪邸は、まるでインテリオールのファゼンデイロ邸宅そのものだ。グローボTVのノベーラから飛び出してきたようなお屋敷の裏には、かつて住んでいた日本移民独自の建築様式の文化住宅が修復されている。
1923年に建てられ、文化財指定された二階建ての木造家屋だ。日本人大工を中心に自分らで建てたという。柱は最初のままだが、シロアリ対策で壁や床などは全改修した。実際に1977年までここに住んでいたという。天谷良吾は「今でも毎週1回は掃除する。これを維持するのも結構な手間なんだ」と愛着のある素振りで柱をなぜる。
天谷製茶工場の初代は天谷捨吉、二代目は平三郎で、良吾が三代目の経営者だ。捨吉は福井県の出身で北海道へ移住後、渡伯した。豪邸の居間の正面には堂垣内尚弘北海道知事(当時)が平三郎に送った揮毫「拓魂」の書が額縁に飾られている。
1971年1月8日付け日伯毎日新聞によれば、「天谷エリオ」(平三郎)は1919(大正8)年来伯でレジストロ茶園王国を築き上げた功労者で「製茶工場を持ち、シャー・イピランガがその商標。五十家族余の使用人が働いているが、住宅周囲にはあらゆる野菜を栽培、手入れの行き届いた整然とした農地は同氏の几帳面さを物語っている」とある。
福澤は「良吾さんは他の作物には目もくれなかった。パイオニアにはならないが2番目、3番目を堅実に守っていくタイプ。父平三郎の無借金経営の方針を今も貫き、お茶景気が終わっても堅実経営に務めた」と評する。
工場の乾燥台では40%の水分を乾燥させ、砕いて一度、二度と発酵させ、風で飛ばして異物を取り除く作業を繰返す。一番良い部分から4等級まで選別する。良吾は「品質管理が命。徹底的に異物を取り除かないと紅茶本来の風味が出てこない」という。
読書好きだった祖父の先見の明、父の堅実さを受け継いで製茶工場の経営に取り組んだから唯一生き残った。並み居る大手が辞めても、徹底的に経営合理化を図り、ギリギリ生き残り、12年は1200トン生産した。チリなどに輸出しているが、昨年前半までは国内向けには特定のブランドを持たず、主にマテ・リオン社に原材料として売り「マテ茶」として消費されていた。
だが同マテ茶会社が米国コカコーラ社に買収され、原料買取り値段を大幅に下げてきて、苦境に陥った。それを受け、輸出用の最高品質のものだけ厳選して「天谷茶」という名で、昨年から東洋街などで売り始め、好評を博している。
その販売に関わる今里ディズニー(52、二世)は「直射日光が強くて、朝霧が立つ。そんな気候は世界中を探してもごく少ない。天谷茶は日本人向きのクセのない、英国産紅茶に負けない香りが楽しめる」と薦める。
良吾は、現状では「人件費の安いインドやケニア産と競争にならない」という。次々に他社が手を引く中「どうして続けるのか?」と問うと、一瞬考え込み、「現在、製茶工場はここがブラジルで唯一。いったん辞めてしまったら再開するのは大変なこと。いつかいい日が来ること信じて、とにかく今は維持することに心を砕いている」と考え、考えしゃべった。
その胸の奥には、日本人が持ち込んで一世風靡した紅茶産業への誇りと愛情が秘められている。いつの日にか〃復活の日〃がくることを信じて――。(つづく、深沢正雪記者)