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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2014年3月6日

 「人間は生まれながらにして平等」とは日本国憲法の条文だ。こんなことが明記されるのは、身分を作って互いを差別しあってきた歴史への反省があるからだろう。でも、実際は才能も容姿も人それぞれ、中には障害を持って生まれる人もいるのだから、本来平等なわけがない▼それでも日本人がある程度「自分たちは平等だ」と感じているのは、国が「機会の平等」を保証することで、「生まれながらの不平等」を是正しているからだろう▼多少の経済格差があっても、子ども全員が義務教育を受けられ、識字率はほぼ100%、国民の大半がテレビや車を持っている国が世界にどれだけあるだろう。渡伯するまでは母国の欠点ばかりが目について、そんな恵まれた境遇にも感謝できなくなっていた▼サンパウロ市を車で走ると、交差点でガムや水を売る貧しい身なりの子どもを見かけ、目を背けたくなる。彼らの親も同様の生い立ちを過ごし、彼らが近い将来に作るであろう子孫も似たようなことをする――そんな悲しい想像が湧く▼大半が中産階級の日本から来ると、一握りの特権階級が富を握る当地の経済や教育の格差は悲劇的だと感じる。それに気付き始めた一部の若者が、昨年6月に「W杯よりも教育を」と叫びだした▼ただし、平等を実現しようとした結果、日本の日本人は「平均値」や「普通」という呪縛に苦しむようになった。そのせいか、成功した移住者には「ブラジルは〃自由〃でいい」という人がけっこういる。つまり社会格差は自由な経済競争の賜物か。「機会の平等」から生まれる「自由な競争」が格差を生むのであれば、人は何を目指していいのか―難しい問題だ。(阿)