ニッケイ新聞 2013年1月25日付け
一九七五年 羽田国際空港
「もう、おまえとは会えないかも知れないな」
大学時代の友人、越生孝治が言った。半年ぶりに会った越生はスーツ姿だったが、どこかぎこちなかった。民放のテレビ局に就職し、アシスタントディレクターとして働き始めていたが、仕事柄学生の頃と同じような格好で普段はスタジオを駆け回る日々を送っていた。
「ばかなことを言うな。二、三年、サンパウロで記者をして帰ってくるだけさ。その後のことは、帰国した時に考える」児玉正太郎は苦笑しながら答えた。
晩秋で外気は冷たかったが、児玉はジーンズにTシャツという姿だった。南半球は季節が逆転する。サンパウロからの連絡では、例年になく暑い日が続いているということだった。児玉の気持ちは早くもサンパウロに着いているかのようだった。高校時代にサッカー部に所属し、成長期にスポーツをしたためなのか、身長は一八二センチほどあり、長身のせいかTシャツ姿は痩せて見える。
二人は早稲田で社会学を専攻し、卒業すると越生はTVの世界に飛び込み、児玉はサンパウロで発行されている邦字紙パウリスタ新聞の東京支局に採用された。日系人向けの新聞はパウリスタの他にもサンパウロ新聞、日伯毎日新聞の二紙も発行されていた。しかし、日本が高度成長を迎えた頃から、移民は激減し、新聞記者も極端に不足していた。ろくな就職口もなく、サラリーマンになる気もなかった児玉はパウリスタ新聞でしばらく働いてみることにした。研修期間として二年はサンパウロで働くことが支局採用の条件だった。
新聞記者として働くとなると、永住査証が必要になった。その手続きに半年かかってしまった。児玉は新聞社の手回しでブラジルに渡る移民の中に紛れ込んだ。農業移民の時代はすでに終わり、年間に二、三百人の技術移民がブラジルに渡っていた。工業化を進めるブラジルに必要な技術を持つ者だけが移民として移住していた。新聞社の写植工として技術移民に加わり、児玉とともにブラジルに渡る移民は全部で七人だった。
「もう会えない」という越生の言葉には実感がこもっていた。海外旅行を楽しんでいるのは限られた一部の人たちだけで、まして日本の反対側に位置するブラジルのことなど地球の果てのように感じられたのだろう。一九七三年までは船による移住が行われ、四十日以上もかけて移民は南米に渡っていったのだ。
移民という言葉にはどこか物悲しい響きがある。それは遥か彼方の見知らぬ地と日本との距離に起因しているのかも知れない。理由はそれだけではない。移民は棄民という言葉とほぼ同じ意味合いで使われてきた。国際空港の華やかな雰囲気とは対照的にこれからブラジルに渡る七人の技術移民と、石川達三が「蒼氓」の中で書いた移民とを、越生は重ね合わせて考えていたのだろう。
見送りには、春卒業したグループや大学院に進んだ者、単位不足で留年した者、十数人が来ていた。児玉への挨拶をすませると、彼らは久し振りの再会に数人ずつになって近況を報告し会っていた。
日本航空八二二便、ロサンゼルス行きのファイナルコールが流れた。
「そろそろ中に入らないとまずいかな……」児玉が呟いた。
見送りに来た友人が児玉の周りに再び集まった。山岳部に所属、山登りに明け暮れていたのが災いし、留年した折原勇作が児玉の前に出ると握手を求めた。
「いいジャーナリストになってくれ。活躍を期待しているぞ」
「ありがとう。ところでおまえの方はどうするんだ」
「出版社にどうにか潜り込めそうなんだ。出版社で働きながら、作家の道を目指すつもりだ」
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