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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (82)=黄金郷と化した紅茶の都=続々と立ち並ぶお茶工場

ニッケイ新聞 2013年12月3日

亀山譲治

亀山譲治

岡本はセイロン島の港で買った丸いパンに種を10個ずつに封入して、案内人に船室まで届けさせた。デッキを洗う砂を箱に詰めて種を埋め、無事にレジストロに蒔くことができた。その種から60本ばかりの苗が育ち、一年後には挿し木にして、5年後には種を採取できるまでになった。
これがラ米初めての本格的なインド種の紅茶生産だった。
これを見た海興はようやく重い腰を上げ、《一九三七年に海興が郷土産業振興の為、静岡県から泉地山太郎技師を招聘したため技術の方もぐんと向上して来た。更に翌一九三八年八木氏を日本から招き製法の不備を完成した》(『曠野の星』22号、54頁)。製法を完成させるまでに3回も専門家を招聘するという先行投資をしたことがその後の幸運を招いた。
1939年に欧州で世界大戦が始まった。《世の異常景気が出現し、茶の海外輸出の激増と圏内消費の旺盛とで茶は羽が生えて飛ぶ様に売れ、まだ出来上がらない三カ月後、四カ月後の製品まで予約される有様で一キロ十五ミルの茶が一躍四十ミルに暴騰し、レジストロの茶業者達は皆五百コント以上の成金になった》(『曠野の星』22号、54頁)
英国が戦争に巻き込まれてインド産紅茶がなくなり、レジストロ産で代用された。《長い間経済的に恵まれず、金の顔を見たことがなかった植民地が黄金の洪水となったので、其の金で茶園を拡張し、工場を建て、家の中には文化設備をし、女子供は絹の服を着てサンパウロ見物に行き、久しぶりに苦労の皴を伸ばして我が世の春を謳う時代になって来、他地方からは「黄金郷レジストロへ! レジストロへ!」と茶園を目指して沢山の人達が流れ込んで来た。この好況が三年間続いて、レジストロは貧乏を知らない裕福な別天地にのし上がってしまった》(『曠野の星』22号、54頁)
かつて人材流出一方だった苦難期をへて、基幹作物をえたレジストロは生まれ変わった。
《かつては暗黒な前途に鎖され、人々は離散し、特に崩壊の一歩手前まで押し詰められた悲劇の植民地も、隠忍四十年、一道を究めて倦まなかった先駆者岡本寅蔵の努力によって、暗黒の村に灯し火は赤々と輝き、ひっそりと音無き山野は、今美しき茶摘み女の艶めかしい歌声が豊かに流れ、工場エンジンの爆音はカボクロの長夜の夢を破って活動の理想郷となり、貿易による外貨獲得のブラジルの宝庫地帯として登場するに至った経路こそ、日本移民史の誇るべき一頁であることを我々は銘記しなければならない》(『曠野の星』22号、63頁)
岡本は最初に茶の種を見つけ出してくれた屋比久猛徳の狭気に感謝し、30年間必ず茶を贈った。
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亀山譲治(じょうじ、79、二世)は、岡本寅蔵がアッサム茶の種を極秘に入手した1934年にレジストロで生まれた。
33歳の若さで亡くなった父亀山亀吉(かめよし、福岡)は最初モジアナ線に配耕され、3年の義務農年をコロノとして過ごした。一緒に移住した祖父は福岡では、馬車を製造する大工だったが、日本も車が増え産業構造が変わってきていた。「将来性がないと移住を決意した」という。
1929年頃に同地入植。「土地の悪いところに入った人は1、2年で出て行った。良い土地の人は残った。海興に言われたところに入るしかないから、土地は自分で選ぶことができなかった」と証言する。「たくさんの人が土地売って、サンパウロとかあちこちに出て行きよった。買う人いなかったから、みんなうちに売りに来よった。今じゃあ、うちには300アルケールもある。昔はこれを全部お茶畑にしていた。お茶は悪い土地でも育つんだ」。
1939年頃に製茶業に乗り出し、工場を作った。最初は年産2、3トンの小さなものだったが、最盛期には年産2千トン規模になっていたという。(つづく、深沢正雪記者)