ニッケイ新聞 2013年12月5日
ウルグアイとブラジルの両国にまたがって活躍した60〜70年代の名サッカー選手、ペドロ・ロッシャが2日、遺伝性の中脳萎縮症のため、サンパウロ市の自宅で亡くなった。70歳だった。
ペドロ・ロッシャは60年代、ウルグアイを代表する選手として名を馳せた。同国の名門で、当時国内では無敵を誇ったペニャロールのミッドフィルダーとして活躍。同チームはウルグアイ・リーグで1959〜68年の10年のうち8回優勝した上、60、61年、68年の3度、リベルタドーレス杯で南米一に輝いた。この頃はペレのいたサントスも全盛期だったが、その当時のペレのサントスでさえ、62、63年の二連覇のみで終わっていることから、ペドロの3度の南米一がいかに快挙であるかがわかる。
そして70年、自身3度目の出場となったW杯メキシコ大会でウルグアイのベスト4入りに貢献したあと、ペドロ・ロッシャはサンパウロFCと契約した。ここでペドロは、70年W杯優勝のセレソン・メンバーでボタフォゴから移籍してきたジェルソンと共に活躍し、1957年に建設後も13年優勝がなかった本拠地モルンビー・スタジアムに待望のタイトルであるサンパウロ州選手権での優勝をもたらした。以後、サンパウロには1977年まで在籍し、通算375試合で113得点をあげる活躍をした。72年には全国選手権で外国人選手としては初となる得点王にも輝いている。その後はアトレチコ・パラナエンセやパルメイラス、メキシコ・リーグなどに移籍し、1980年、37歳で引退した。
以後は監督業に進出し、ブラジルではポルトゲーザやモジ・ミリンといったチームで監督をつとめている。その監督生活のほとんどをブラジルで過ごしているが、1997年には京都パープル・サンガの監督として招かれ、1年間Jリーグで指揮をとった。
W杯にウルグアイ最多の4度出場するほどの国民的英雄ながらもブラジル人に愛され、生涯の最期もブラジルで閉じた。(3日付フォーリャ・デ・サンパウロ紙より)