ニッケイ新聞 2013年12月12日
写真=西村氏の肖像画の前で
ブラジル日本移民史料館は開館35周年と移住105周年を記念し、11日からジャクト農機創業者である西村俊治氏の展示会を開催中だ。前日の10日午後7時からは、同館で開幕式典が行われ、ブラジル日本文化福祉協会の木多喜八郎会長、ブラジル日本都道府県人会連合会の園田昭憲会長、総領事館から鈴木暁領事らが出席し、西村家からも14人が祝福に駆け付けた。来年2月28日まで開催している。
サンパウロ人文科学研究所の宮尾進顧問は慶祝の挨拶で、「西村さんは22歳で渡伯して、作る事が好きだったので『何でも直します』という看板を立てて修理屋を始めた。開業当初は、隣近所のおばさんたちから穴の開いた鍋を直すよう依頼されたという。それがジャクトの起源となったと言っていた」と過去を振り返った。
「終戦後ジャクトを立ち上げ、欧米の最先端技術導入にも熱心だった。ドイツで見つけたプラスチック製品を、農業機器に生かすことを決めたが、輸入規制があった。1964年に、当時の大統領カステロ・ブランコ氏にプラスチックの輸入規制緩和を直接申し出るほど熱意を持っていた。農業にどれだけの利点があるかと説得し、許可を得た」という驚きの逸話を披露した。
西村氏は『一介の移民として手ぶらでやってきて、千人もの従業員を抱える大きな企業となった。儲けた分は社会に還元』と思い立って、農工学校を創立したとの経緯にも触れた。
「生徒自らレンガを積んで校舎を作った。3年間の全寮制で、外に出ても良いのは1カ月に1度だけ。農作業から機械操作、修理、日米実習なども行っていた」と厳しい校風に退学者もいたが、充実した教育制度があった証拠とも語った。
京都会の杉山エレナ会長は「年1回行われる京都会の総会には、いつからか毎年出席して頂いた。本業だけでなく、各方面で気配りされた方だった」との貢献も称えた。「京都会創立50周年には、ポンペイアへのバスツアーを企画して、44人を招待した。その時、稼いだ私財を分け与える『分服』という考え方、それがなぜ大切なのかを説明していたことが印象的。大胆な一面に反して、社会性を重んじる人柄を合わせ持っていた」としみじみ語った。
司会の吉岡黎明さんは「思い立ったらすぐ行動する。西村さんはそんな性格だったから、自らの道もどんどん切り拓いてきた。私の引退を相談した時は『まだ早い。その年で私は学校を作ったんだぞ』と怒られたこともあった」と懐かしんだ。
現在、西村財団の代表を務める息子の次郎さんは「移民史料館の展示に父も加わることが出来、大変にうれしい。中でも、大好きなソルゴ(イネ科植物)に囲まれたお気に入りの一枚だ」と展示物を説明し、開催を喜んだ。