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救済会60周年と憩の園55周年

ニッケイ新聞 2013年12月21日

71年間も救済活動続け=戦中から邦人救護に専心

 救済会の正式発足は1953年だが、その前身である「サンパウロ市カトリック日本人救済会」は1942年6月、戦争中にその活動を開始していた。コチア産業組合中央会のような食糧供給の国家的役割を担っていた農業組合を除けば、戦争中に日本人を名乗って活動していた唯一の団体といえる。政治警察(ドップス)から投獄された人々、サントスから強制立ち退きされた6千人以上の日本移民を救済するための活動を中心に、あらゆる救援事業を遂行した。戦後は1953年5月に正式な慈善団体として改組し、徐々にサンパウロ日伯援護協会や姉妹団体ともいえる各福祉団体が誕生する中で、その事業を高齢者福祉に絞り、移民50周年(1958年)の機に「憩の園」を設立した。実質的に71年間も継続して日系人を救済し続け、現在では地域福祉にまでその活動範囲を広げている。日系最古の福祉団体の歴史を振りかえった。(敬称略)

(1)戦中戦後の救済会前史=あらゆる福祉医療引き受け

写真=戦時中に日本移民を助けたドン・ジョゼー・ガスパール大司教

写真=創立者の一人の宮腰千葉太

写真=バチカンからの第一回の小切手の受け取りの様子(1943年)

1942年1月にリオで開催された汎米外相会議において、アルゼンチンを除く10カ国は対枢軸国経済断交を決議し、ブラジル政府は国交断絶を宣言した。
ナチス・ドイツはその直後、米国の補給路を断つために大西洋上のブラジルや米国艦船を次々に潜水艦攻撃で沈めた。その死者数は2月から8月までで1千人を越えたという。この被害を補償するためにブラジル政府は2月、枢軸国側移民や企業の資産凍結令を出し、ブラ拓、海興、東山、南銀、横浜商銀などが真っ先にその標的にされ、次々に邦人がスパイ容疑で政治警察に拘束された受難の時代だった。
渡辺マルガリーダは後に座談会で、救済会の始まりをこのように回顧している。「1942年の一番寒い頃でした。引き揚げていく大使が宮腰さんによろしく頼むといって総領事館の赤尾さんを通じてお金をおいていってくれました。金額はいくらだったか覚えておりません。早速わたしは工場へ行って、マーリア(セーター)を80枚ほど買って、二、三人の友だちに一緒に行って貰って、みなさんが収容されている移民収容所に差し入れに行きました。入口でこれはどこから持ってきたのかと尋ねられたので、カトリック婦人会から持ってきたので、これを日本人に着せてくださいと頼みました」(『救済会の37年』救済会、1979年、10頁)。
これが救済会最初の活動で、42年5月13日のことだった。在外公館閉鎖、国外退去を命じられた石射猪太郎大使ら日本国外交官は7月に引き上げた。
「カトリック婦人会」という名前は、マルガリーダがとっさの機転で思い付いたものだった。ちゃんと司教にお願いした方が良いという話になり、アルゼンチン大使館勤務の元外交官で1937年に海興サンパウロ支店長として移住していた宮腰千葉太、高橋勝(会計士、後にブラジル・トヨタ重役)、渡辺トミ・マルガリーダの3人は、ドン・ジョゼー・ガスパール・デ・アフォンセッカ大司教にお願いにいき、カトリック婦人会に相談してもらった。会議が終わった後、大司教はにこにこ笑いながら出てきて、「明日大司教館の事務所に来てください」と言った。
翌日に訪ねると、婦人会ではなく「教会」の名で行いなさい、しかも教会の口座に預金することを許しますとまで言われた。こうして大司教の庇護のもと、「サンパウロ市カトリック日本人救済会」は石原桂造を加えた4人が創立メンバーとなった。
それから一年ほどして、マルガリーダは驚くような話を聞いた。実はカトリック婦人会は会議で「戦争中のことなので引き受けできない」と断っていた。にも関わらず、大司教は自らの責任で引き受け、しかもそれを一言も漏らさなかった。高橋は同座談会の中で「ドン・ジョゼー・ガルパールと云う人は偉い人でしたね。(中略)全然おもてに出さず、自分一人の腹におさめていたのですね」と感慨深くコメントしている。
翌43年7月、サントス海岸部からの強制立ち退き令がでた。マルガリーダは移民収容所に到着した500人が「朝から何も食べていないというので、食べ物を買い集めて持って行ってあげたのは夕方四時頃でした。次の日は朝五百人、夜五百人、一週間の間に六千五百人の人たちが救済会の手を通りました」(同座談会)という。これがなかったら、一体彼らはどうなっていたか。
ガスパール大司教は43年8月にリオで飛行機事故に遭い亡くなっていた。戦争中、バチカンから100コントずつ3回の送金もあった。
当時、救済会は政治警察拘束者への差し入れだけでなく、「貧困者・疾病者及びその家族の救済、寄辺なき老人の収容・養老院への入院斡旋、孤児・私生子の収容・養育、精神病者の入院斡旋、結核患者の入院斡旋と救済、死者(無縁仏)の埋葬、失業者の就職あっせん並びに人事相談」(『救済会の沿革とその事業』1968年、3頁)という、ありとあらゆる福祉医療事業を一手に引き受けていた。
1967年11月末までの25年間に、なんと延べ人数で6万1403人を救済したと同記録にはある。
同『沿革』には、初期の救済会事業への最も顕著な功労者5人の名前を挙げている。マルガリーダを公私ともに支えた夫・渡辺儀平、マルガリーダが奉公した家の主人で日本移民の無料診療や投薬をしたのみならず浄財の寄付もしたセレスチーノ・ブルー医学博士(USP医科大学主任教授)、大司教など教会との関係を取り持ってくれたフレイ・ボニファシオ神父、その温厚なかつ老練な手腕をもって評議会を統率して各種の難題を処理した長谷川武、陰に陽に救済会を支えた下元健吉(コチア産組専務)だ。

(2)1953年に正規登録=援協等創立し役割分担進む

写真=開園当時の憩いの園の様子

あらゆる相談事を持ち込まれていた救済会は戦後、公的な団体として活動する必要に迫られ、1953年3月27日、公益法人アシステンシア・ソシアル・ドン・ジョゼー・ガルパール(日本語名=社会福祉法人「救済会」)となった。
この名を冠したのは「大司教の決断がなければ、会は今日あるを得なかった」という宮腰千葉太の証言による。本部住所=ジュピテル街、291、サンパウロ。《理事会》会長=ドン・パウロ・ロリン・ロウレイロ、副会長=渡辺マルガリーダ、書記=芳賀定一、第一会計=高橋勝、第二会計=竹中正、理事=フレイ・ボニファシオ神父、木原暢、宮城重夫、田子森宗市修道士
《理念》①純然たる民間団体として終始する。②宗教宗派を超越。③政治的色彩をおびない。④基金を募集して財源を豊かにする。
戦後移住が1953年から開始し、1955年からコチア青年が始まり、翌56年には産業開発青年隊も到着し始めた。ところが単独で渡伯した青年の中には路頭に迷ったり、精神障害を発症するケースも出てきていた。そのため、戦後移民の本格的な受け入れ団体として1959年1月にサンパウロ日伯援護協会が組織された。
その流れの中で、「(援護協会が)だんだんと救済会が相談にのっていた貧困家庭、マンエ・ソルテーラ(子連れ女性)の問題、精神病者のお世話等を扱うようになったので、われわれは頂いた土地と建物を利用して、その頃からようやく問題になりかけた老人問題にしぼって行こうじゃないか、と自然のなり行きのようにして移って行った」(小笠原勉、同座談会)という動きだった。

(3)1958年に憩の園創立=〝開拓者〟が憩う場として

写真=土本真澄が指導する陶芸教室

写真=笠戸丸移民の田中ツタさん(鹿児島、1978年頃)

写真=たくさんの来場者でにぎわう憩いの園バザー

写真=地元向けの福祉セミナーの参加者のみなさん

写真=身体を動かす治療をするみなさん

救済会は、サンフランシスコ修道院から、教会や宿舎など様々な施設の整った10アルケールの土地を寄贈されることになり、移民50周年を記念した1958年に憩の園が誕生した。定員27名。園内の運営は現場に居住し生活をともにしたイマクラーダ・コンセイソン修道会の修道女4名、園長は浦田シャンタールと石原桂造、はるえ夫妻。
同座談会によれば、「憩の園」の命名者は宮腰で、「開拓者として生涯働いてきた人々が最後に憩う場所」という意味が込められている。
まさにその通りに最初の入園者は、笠戸丸移民の農業労働契約移民781人中325人を占めた沖縄県人の與那嶺甚五郎だった。1958年5月24日に、ドン・パウロ司教の祝福のもとイナウグラソンを行い、約300人が列席した。
当時は道が悪く、雨が降ると車のタイヤにチェーンをつけないとたどり着けないような場所だった。坂道があるため、「イナウグラソンの次の日にイルマン(シスター)がミサに行くのに石原さんが坂の上から縄を下してそれを捕まえて登ったり降りたりしたことがありましたよ」(同座談会でマルガリーダ談)という状態だった。
当初の入園者は50歳から60歳までの比較的健康な人たちが入園していた。
事務局にはアクリマソン区ジュピテル街のマルガリーダの自宅を長いこと使っていたが、手狭になったことから1970年にサンパウロ市コンセリェイロ・フルタード街648番2階22号室に移転した。
1967年には憩いの園10周年記念事業として、鐘ヶ江久之助、菅山鷲造両棟増築を完成させた。これで定員は157名となった。当初は自家発電だったが、ようやく電気、水道、電話が整備され、入口までアスファルトで舗装されるなど便利になった。これを期して、老人福祉を専門分野として選択し、他の業務を徐々に姉妹団体に依頼し今日に至る。
1971年には老人医学の専門家、森口幸雄博士が「健康度別の対応が不可欠」との理由から特養ホームの必要性を指摘する。実際に76年には寝たきり老人のための病棟を増設した。78年には在園者数は最多の137人を数えたが、当時の職員は44人であり、健康度別の対応の質を重視して80年代、90年代を通して100人前後に自制していた。
また、サンパウロ市でおこなわれたゼミに於いて、老人問題の対策は長期間を要し、多様な面に関連性があるため、国のみに委ねるのではなく、それぞれのコミュニティーが自己の問題として対処せねばとの結論に至る。
71年から土本真澄による焼き物の指導が始まり、そのほか九重織り、折り紙なども教わり、自分たちも何か作っているという気概が生まれた。手芸品や工芸、小動物の世話や畑や庭の手入れなど、できる仕事を入園者が分担している。
1974年には「憩の園」在園者のため、サンパウロ市、サンミゲール・パウリスタ、サウダーデ墓地に納骨堂が建設される。これは扶養家族のない在園者に大きな精神的安心感をもたらした。
1987年2月から憩の園運営責任がイマクラーダ・コンセイソン修道女会から宮崎カリタス修道女会へ移った。

(4)高齢者福祉から地域福祉へ=課題抱えつつ社会に対応

写真=ドナ・マルガリーダ(中央)と手芸をする在園者

1990年1月、90歳のドナ・マルガリーダは一線を退き、居を「憩の園」に移した。7月には第3回増築完成し、虚弱高齢者用のドナ・マルガリーダ館を落成した。在園者111人に対し、職員は61人。以後、在園者を減らす一方、職員を増やす傾向を続け、2006年には同数、2007年には逆転して職員の方が多くなり、2012年現在で職員103人、在園者84人となっている。健常者よりも一般対応の難しい要介護者を中心に受け入れた結果、そのような体制になってきた。
1974年に地区協力委員会が発足し、2000人程度だった会員の増加に励み、1986年には8244人を数えた。80年代半ばから始まったデカセギブームとハイパーインフレの大不況で激減しはじめ、98年には2000人前後になった。その後も減少し続け、2012年現在では832人までなってしまった。この会員数を増やすことが、今後の大きな課題となっている。
1996年9月には前山隆の著作『ドナ・マルガリーダ・渡辺』(御茶の水書房、1996年)が出版された。
1996年4月27日には「憩の園在日協力委員会」が設立された。駐在員夫人として9年間、救済会に関わった渋谷まさみが帰国後も活動を続け、田付景一元大使夫妻の協力で、この委員会が設立された。発起人8名。元ブラジル駐在大使賀陽治憲氏が会長に就任した。
途中で名称を「憩の園在日協力会」と変更し、停滞することなく会員を増やしてきた。2006年現在で個人・団体合わせて200人以上の協力者がいる。多くを福祉関係者やカトリック教徒が占める中、少数ではあるがデカセギの会員もいる。2006年5月27日には東京都内で「在日協力会」の設立10周年の記念懇親会も開催された。
1998年からはNAKド・ブラジルによる憩の園支援歌謡祭も現在まで行われている。2004年11月には希望の家、子供の園、やすらぎホームと憩の園福祉4団体が初めて合同の募金イベントを催した。さらに2006年の第32回憩の園バザーよりサッコロン・サウーデの強力な支援も始まった。また2007年6月からは陶芸家ヒデコ本間主催の憩の園支援「SUKIYAKI do BEM」慈善夕食会が催されるようになるなど地道な協力が集まりつつある。
2002年8月24日にはブラジル浪曲界の重鎮、中川芳月が新作『渡辺マルガリーダ物語』を「憩の園」で披露し、好評を博した。力のこもった熱演に会場には涙する人もみられた。日本での苦労、父親の借金の肩代わり、ブラジルに来てからの奮闘振りを独特の節回しで唸った。
1958年3月に救済会に入って、ドナ・マルガリーダ初代会長の右腕として45年間も活躍してきた吉安園子事務局長が、2003年いっぱいで退職し、06年から理事に就任した。
2007年にはサンタクルス病院と憩いの園で、憩の園が創立して以来、ずっと行われてきた同病院の好意的な対応の制度化として相互協力文書が調印され、老人医療の無料対応が成文化された。
福祉団体登録が連邦政府から市に移管される流れの中で、以前は書類審査だったものが、実際に市担当者が視察に訪れるようになった。市から認可を貰い続け、良好な関係を保つために、もっと地域福祉に力を入れる必要が生まれてきた。
その中で2007年の総会では、「施設福祉」とともに「地域社会福祉」を柱として挙げ、数年の懸案だった「多目的ホール(Pavilhao Comunitario)」の建設を決議した。これは、地元市民向けの高齢者や家族向け講習やイベントなどを目的とした建物だ。
2008年7月27日、創立五十周年を迎えた憩の園は「開園50周年式典」を同園内で開催し、約400人がお祝いに駆けつけた。式典のほかに、「宮腰千葉太多目的ホール」の記念プレート除幕式と写真で同園の歴史を見ることができる「憩の園資料室(Sala de Documentacao IKOI NO SONO)」の落成式を行った。
この宮腰ホールの貸し出しによる賃貸収入を増やすことで経営安定化を図り、憩の園近隣の地域社会向けに高齢者介護講習会を続け、より密接な関係をつくり、社会全体の高齢化に対処していく方針だ。
2012年には、活力ある老年期を考える交流の場が、実際にこの宮腰ホールで企画実施された。隣接住民を対象として、家族の絆の強化、連帯で高齢化がもたらす障害に対処し健康で心豊かな生活に貢献するような勉強会・体育が繰り広げられた。
参加者からは「この企画は重要です。この地域には老人のための活動は何もなく、すべてが欠乏していて友情すらありません。落ち込みから出るのにここへ来ただけで人との交流ができ、成長できます。もっと企画の広報が必要です」との感謝の言葉が寄せられている。
コロニアからのボランティア、寄付活動なくして救済会の活動の継続はありえない。活動に理解のある人に再び会員になってもらい、宮腰ホールでの地域福祉などに力を入れ、高齢化するコロニアに、ブラジルに求められる福祉団体として活動を続けていくだろう。