ニッケイ新聞 2014年4月26日
サンパウロ総合大学(USP)化学研究所教授会が17日、1974年に失踪し、職務放棄で解雇となったアナ・ローザ・クシンスキー・シウヴァ氏の名誉回復と遺族への正式な謝罪を決めたと16、23日付エスタード紙、17日フォーリャ紙などが報じた。
アナ氏はUSPで化学を教えていたが、74年4月22日に結婚4周年のお祝いに夫で物理学者のウイルソン・シウヴァ氏と共に昼食を食べに行くと言って出かけたきり戻らず、職務放棄とみなした化学研究所教授会が1975年10月に解雇処分とした。
ところが、その後出版された軍や市警関係者の回想録から、アナ氏は夫と共に誘拐され、リオ州ペトロポリスにあった「カーザ・ダ・モルテ(死の家)」に連行された後に拷問死し、砂糖精製工場の炉で焼かれたことが確認された。
アナ氏夫妻は共に1942年生まれで、民族解放行動(ALN:アッソン・リベルタドーラ・ナシオナル)の活動に携わっていた。二人の名前は、恩赦法の対象者リストにも記されている。
アナ氏の名誉回復は、ジャーナリストでUSP退任教授でもあるベルナルド・クシンスキー氏が1995年から要請していたものだ。USP学長室は同年中にアナ・クシンスキー氏が政治的な理由で失踪した事を認め、解雇処分を見直すべきとしたが、解雇処分は当時の法務大臣名で出た、二人はテロリストで国外逃亡中との文書に基づくものだったと釈明した。
遺族達はこの釈明に納得せず、化学研究所教授会が解雇処分を無効にした上で、正式な謝罪をする事を求めていた。この要求はUSP真相究明委員会の要請に基づいて開催された化学研究所の教授会にかけられ、議長代行のジャニセ・テオドーロ教授自らが名誉回復を支持する発言をした後、全会一致で解雇処分の無効化と遺族に謝罪する事を決めた。ベルナルド・クシンスキー氏には日を空けず、同教授会からの名誉回復の知らせと正式な謝罪文が手渡された。
処分から40年後の名誉回復は、軍政下に犯した様々な過ちを認め、是正する意味を持ち、失踪から40周年に当たる22日午後3時からは、化学研究所入り口の庭に設けられたアナ・クシンスキー氏を顕彰する彫刻の除幕式が行われた。
ベルナルド・クシンスキー氏が一家を上げたアナ氏捜索の様子を織り込んで書いた『K―捜索の足跡(K-Relato de Uma Busca)』は数カ国語に翻訳されており、ブラジルでも今年、軍政50周年を記念して復刻出版された。化学研究所理事のルイス・エンリケ・カタラニ氏は軍政時を振り返り「逃亡したり、誘拐後に拷問を受けたり、死亡したりした仲間がどれほどいた事か」と語った。