ニッケイ新聞 2013年11月1日
移民会社が主体となった海興は国士的な想いよりも、利益のでる事業が重視され、植民地経営は、いわば継子扱いされた状態であった。〃日本人村〃創設に半生を掛けてきた青柳の全人格が反映された組織はもろくも変質し始めていた。
こうした海興への反発からアリアンサという新〃信濃村〃は発想された。このため、日本政府を後ろ盾にした海興に対し、アリアンサや力行会が立ち向かっていく流れになる。その発端が聖南の地で芽生えていた。
この時、永田は輪湖を《まず公平に見たところ、会社系の半反逆者である》(『北原』241頁)と見抜いている。卓越した見識を持って時の総領事に可愛がられて伯剌西爾時報の編集長に推され、イグアッペ植民地の人集めのために訪日する情熱を持ち、理想のためには譲らない面を併せ持ち合わせ持つ。時にお上に反逆する破帽弊衣、バンカラな輪湖の本性を見通していた。
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1920年のレジストロでの〃焚火の誓い〃を経て、日本側では1922(大正11)年1月、永田稠、輪湖俊午郎、宮下琢磨(片倉製糸社員)の3人が企画してアリアンサ移住地建設を目指した「信濃海外協会」が設立された。この時、小川平吉(国務院総裁)、今井五介(貴族院議員)、岡田忠彦(県知事)、笠原忠造(県議会議長)、佐藤寅太郎(信濃教育会長)5氏が発起人となった。月々の協会経費は今井が自らの財布から出していたという。
永田と宮下が長野県中の有力者を口説いて回るが、理解者はごく少数。20万円集めるという同海外協会の構想は創立2年目にして行き詰まり、永田の理解者であった片倉組の片倉兼太郎翁(今井五介の実兄)に頼みに行くと5万円を寄付した。片倉翁と今井五介は様々な場面で、永田を陰で支えた。
輪湖はノロエステ線で土地を探し、当時はアラサツーバが最も奥地であり、アリアンサの辺りは原始林だった。地主との交渉が進み、もう後には引けない状態だった。そんな1923年2月にレイス法案が下院に提出されていた。「もし同法案が可決されたら…。この機会を逃しては、日本人の大土地所有は不可能になる」そんな危機感に急かされていた。
土地購入にどうしてもさらに2万円が必要だったので、永田は送金依頼の電報を梅谷光貞長野県知事(当時)に打った。梅谷知事はそれを読み、結核予防協会の資金2万円を役員に内緒で送金した。《国家百年の計に一身を捧げて万里の外に使しているものを見殺しにしては日本の恥だ。どんな金でもよろしい。永田に送りなさい》(『先駆者列伝』128頁)と梅谷は語ったという。営利的な海興とは違い、民間の国士的な想いが通じる世界がここにはあった。
おかげで10月に2200アルケールの土地契約を結び、11月に北原地価造や大工らがアリアンサ移住地へ入り、先発隊として他3家族とともに原始林開拓を始めた。以後、北原のレジストロでの功績は抹消され、もっぱら〃アリアンサ移住地の父〃と呼ばれるようになる。
梅谷が送った資金は、永田が帰国後に工面して返却し事なきを得たが、まさに綱渡りのアリアンサ建設だった。
北原と座光寺与一の二人の長野県人がまずレジストロから移り、《続いて、レジストロから、北山、伊藤長善、北沢真治の家族が入植した》(『信州人のあゆみ』153頁)と陸続と続いた。1963年以降、長年アリアンサ産業組合理事長を務めた田中治男(1903—1975、長野)も1919年に渡伯して最初はレジストロに入植し、1925年にアリアンサへ移った。(つづく、深沢正雪記者)