ニッケイ新聞 2013年11月28日
仕事の上ではブラジル社会が主な舞台だった彼女も、私生活ではもちろん日系画家との親交も楽しんでいた。
70年代ごろに富江さんと親しく付き合っていた彫刻家の豊田豊さん(82、山形、帰化人)は、「当時の富江さんは、もう有名になっていた間部さんや福島さんを追いかけていた感じだった。普通は40歳になってから始めたら趣味で終わる場合が多い。それだけ意志の強い人」と振り返る。
毎週土曜日には芸術家のたまり場になっていたブタンタン区の豊田家を、当時60代だった富江さんも訪れていた。古いアルバムに残る写真には、スーツ姿で明け方まで快活に踊る彼女の姿がある。
そんな活発な私生活は80歳を超えても続いていたようで、97年からアシスタントをつとめる吉沢太さんは、「付き合いの多い人で、夜はあまり家にいなかった。音楽会にいったり、人の展覧会に顔を出したりして、色々なものを吸収していた」と振り返る。
彼女の頑健さは半端ではなく、「80歳を過ぎても、深夜過ぎて『まだ早いじゃない』と言っていた。90くらいまで病気したことがない。俺が風邪引いていても絶対引かなかったし、タバコもポッカポカ吸っていた」とか。がっちり体型で、働き盛りの50歳前の吉沢さんをして、半ば呆れさせるような壮健さが、富江さんにはある。
この〃夜遊び〃仲間だったのが、画家の越石幸子さん(76、福井)。東京の広告代理店に勤めていたが、「ただ東京に出て結婚したんじゃつまんない。自分を試したい」と高度成長期の65年に渡伯した人物だ。校長先生でしきたりにうるさかった父親には「一年で帰ってきます」と空約束をして来たあたり、ちょっと富江さんに似ている。
二人は自然と意気投合し、73年には一緒に世界旅行にでかけ、米国や欧州の美術館をめぐり歩いた。富江さんに一番近しい人物の一人のはずだが、「何と言ったらいいか難しいねえ・・・。べったりくっつくような友人関係じゃないから」と多くは語らなかった。
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取材を快く受けてくれた富江さんだが、私生活をあれこれ話すのは好きではないようだった。取材中「私のことなんて聞いてどうするの」と時々尋ね返し、1時間もたつと「もうシェガね」と笑いながら取材終了を告げた。
「幸か不幸か知りませんけど、新聞なんかにもよく書いてくださって」との言葉は、メディアへの警戒心と受け取れた。有名になればなるだけ妬みやそしりも受けやすい。誉めそやされた分、どこかで批判も受けてきたはずだった。
百歳誕生日の21日、あちこちの伯字紙やテレビで、異例ともいえる大きな扱いで報道された。しかも今回は、日本でも朝日新聞、日本経済新聞などで紹介記事が出され、めでたさにさらに華を添えた。しかし、数いる日系芸術家の中でも、どうして富江さんが特にブラジル社会から敬愛されるのか——。取材が終わってもそれは謎のままだった。
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77歳で亡くなったという母親の年齢をとうに超えた富江さんは、「百歳まで生きるとは思わなかった。百歳百歳っていわれるけど、ちっともそんな気がしない」と自らの壮健ぶりに驚いている。ポスター、版画、立体、舞台装置。アートと名のつくものに次々に挑戦してきた。尽きることのない創造性の持ち主であり、仕事に厳しく妥協しない、堅固な意志の女性だ。
でも、ふとした拍子に「日本が弱くなると、心が弱くなる」と漏らしていたのが強く印象に残った。かの建築家ニーマイヤーと共に栄誉ある文化勲章を受けるなど、力強く異国で生き抜いてきた〃ハイカラさん〃——でも、やっぱり日本が心の底を支える祖国である様子をみて、少しホッとした。(おわり、児島阿佐美記者)