ニッケイ新聞 2013年11月29日
基幹作物が見つからず、同地では苦しい生活が続いた。脱耕者が続々と出る中で、青年らはその不安な想いを野球にぶつけたのかもしれない。
松村昌和は1930年前後の様子を、「奥地から移転してきた人にはコーヒーの経験はあったが、最初は海興がその植え付けに賛成しなかった。そのうち許可が出て、その人らが植えたが、コーヒーはここに向いてなかった。花が一定に咲かないので実が少なかったし、生育が早すぎて香りが弱かった。米の次にカンナを植えて砂糖作りをした。砂糖工場を作って黒砂糖を売り歩いたりしたけど、純白の砂糖じゃないから、あまり売り物にならなかった」と説明する。
「それで同じ原料だからと1925、6年頃からピンガを作るようになった。おそらく30軒ぐらいあったでしょ。あの頃は豊富にあったんで、みんな飲んでね…。また、飲まずには居れなかったんですよね、あの時分としては」と遠くを見るような眼差しになった。
「それから養蚕。1929年頃からだと思います。カンピーナスにイタリア系のマタラーゾの蚕糸場があったし、あの時分、日本から桑の種がきた。それに町の近くに野生の桑もあったそうですし、イタリア種だったとか。レジストロで1929年にまっさきに養蚕を始めたのは、母みつると菅野勝美(すがの・かつみ)さん、女性二人だった。それからどんどん養蚕家が増えた」と証言する。たしかに長野県は養蚕で有名な場所だ。
「授業終わってから、今度は露草摘んでくれとか、台湾草摘んできてくれとか、お母さんに頼まれてよく桑を摘みに行った。その当時、どういうルートで台湾やロシアの桑が入ってきたか知らなかった。両親亡くなった後、家を整理していたら名刺がたくさん出て来た。それを一つ一つ見ていたら関係した書き込みを見つけた。海興の社員・原梅三郎さんから米増覺(よねます・さとる)さんに頼んで、日本から桑の種を持ってきて、松村さんに渡してれと頼んでいたことが分かった。父が苗を育て増やして養蚕家に分けていたんだと思う」と振りかえった。
「1933年頃から養蚕が盛んになった。レジストロだけでも乾繭所(かんけんじょ)が3カ所もあった。おそらくレジストロ、セッテ・バーラ、キロンボ合わせて200軒ぐらい養蚕家があったのでは」と記憶の糸をたどる。
昌和さんは「父が世話して養蚕組合を作った」というが、1988年10月26日付けパ紙の栄治の訃報には「レジストロ産業組合、南聖果樹組合、養蚕組合を創立、レジストロ共拓会々長、同郷司を歴任。戦後呼び寄せ組合を設立、養蚕移民導入に尽力」とも書かれている。
その果樹組合では、亜熱帯気候を活かして果実のラランジャ・バイーア生産も手掛けたが、サントス、サンパウロに送らないと商売にならない。そうすると運賃が高い。それに輸送時間がかかると果実はすぐ腐ってしまう。「とにかく借金返すまで行かない」という苦難が続いた。
昌和も「植民者が中心となって戦前、日系組合が四つも組織された。養蚕組合に加えレジストロ農業者組合、イグアッペ果樹組合、茶業(ちゃぎょう)組合が出来た。でもみんな紅茶飲まなかったから、最初は作り方知らなかった」という。米、珈琲、カンナ、養蚕——ようやく紅茶黄金期の曙光が見えてきた。(つづく、深沢正雪記者)