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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (58)=地図の上の一本の線=「鉄道通って便利になる」

ニッケイ新聞 2013年10月2日

在りし日の沼田信一さん(2009年12月10日撮影)

在りし日の沼田信一さん(2009年12月10日撮影)

 レジストロが満植になるとリベイラ河にそって18キロほど上流に、1920(大正20)年からセッチ・バーラス植民地が開設された。レジストロから河蒸気で4時間もかかって遡行した。
 パラナ州ロンドリーナの草分け、沼田信一(しんいち、1918—2012、北海道)=09年12月取材=は1933年7月にサントス着、最初に8月1日にセッチ・バーラスに入植していた。
 沼田の父(小一郎、こいちろう)は少年時代に親に連れられて、富山県から北海道の開拓地に移住した経験があった。海興と日本で契約し、初年度の地代を日本で入金してきた。
 沼田さんの著作『信ちゃんの昔話 第一部』(1996年、自家版)には興味深い話が掲載されている。到着後すぐにセッチ・バーラスの海興事務所で入植地の選定をしていた時の話だ。
 《事務所の壁の植民地の地図の上で空いている土地の説明を聞いている内に、地図の上方の植民地外の処に一本の線が画かれている事に気付き、「何のための線か」と、質問すると、「これは将来鉄道の着く予定線で今の奥地程、駅に近く便利になるのです」との説明に、父が良しそれでは、一番奥に決めたと言うと次が大西氏、その手前が加藤氏と決まった。此の三家族は北海道より知り合って来たのであった》(『信ちゃんの昔話 第一部』(96年、自家版)7頁)とある。
 この《一番奥》のマンパラ(Manparra)に10アルケールの土地を買った。レジストロから北へ19キロの地点にセッチ・バーラスはあるが、そこからさらに約24キロも奥にある。
 「うちの父親はすぐに『どうもここはオカシイ』と気付いた。ここで、何を作って、10年したらどういう生活になるのかっていう目標がない。海興行って聞いても『お前ら食べるために米植えれ』しかいわない。『米取れないと困るから、それまでマンジョッカでも植えとかないかん』とかしかいわない。コーヒーの国なのに一本も植えてないんだよな。こっちは10年もしたら儲けて帰ろうと思っているから、うかうかしておられないと思っていた」と信一さんは思い出す。
 だんだん様子が分かってきた。「海岸山脈と海の間だから雨が多い。土地は良くないんだが、雨が多いから木は生える。父親は『こりゃ騙された。資金があるうちにカフェの育つ地域に移らなくては』と考えた」。
 セッチ・バーラスの町で雑貨商を営む西岡儀作にも意見を聞きにいくと、「セッチ・バーラスはダメだ。この辺に入った人は全部ダメになる」と教えられた。そして「入植2カ月目にはダメだってわかった」と振返る。さらに西岡にどこに移動したらいいかと聞くと、《今人気一番のマリリヤが、日本人が多く生活はしやすいが、地力は弱いから間もなく衰退するので、パラナ州のロンドリーナに行けば、地力があるから将来が安心だ、行って見て来なさい》(『昔話』第10巻23頁)と薦めた。
 マンパラから海岸山脈超えて100キロ余り歩けばイタペチニンガに出る。北海道人の沼田小一郎(父)、大西信太郎、加藤一郎の家長3人連れで、年末から正月にかけて歩いて山越えした。「獣道でね、危ないんだ。川には橋が一つもない。でも一日でイタペチニンガまで歩いたって。ブラジル来て5カ月目だから『ボンジア』しかいえないんだ。首から「ロンドリーナ」って書いたものをつって、行く先々でそれを見せて、イタペチニンガから汽車で行けった」。小一郎は10日ほどで北パラナの国際植民地の視察を終え、評判どおりの肥沃な土壌に驚き、早速移動することを決めた。(つづく、深沢正雪記者)