ニッケイ新聞 2013年10月24日
「海興のおかげで一生を棒に振りました。ブラジルまできて貧乏して、貧乏して、貧乏して…」。山根善信さん(よしのぶ、91、兵庫)=レジストロ在住、3月12日取材=は、まるで昨日のことのように憤る。「普通は最初にサンパウロ州の悪い土地のコーヒー園でコロノをやって、それからパラナ州のテーラ・ロッシャに移ったでしょ。僕らはその逆だった。沼田信一さんは『海興はウソを言って入植させた』と書いたが、その通り。海興が見せた地図にはセッチ・バーラスからジュキアまで線が引いてあって、まるですぐ鉄道ができるかのようだった。でも実際は…」。
1921年10月に兵庫県美方郡(みかた)で生まれた山根さんは、両親に連れられ24年に3歳で渡伯した。父は学校の教師をし、農業経験はゼロ。「母は移住に反対したが仕方なく一緒に来た」。そんな両親に子供4人の家族だった。
「日本は当時ひどい不況で、少しでも食い扶持を減らそうとしていた。日本に居ってもしょうがないみたいなことばかりマスコミは書き立てるから、『日本に将来性ない、それならブラジルに行こう』となっただけ。別に永住しようなんて気持ちじゃなかった」。
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1923年9月1日に関東大震災が起き、海外移住を求める機運を一気に強めた。ところが翌1924年に米国上下両院を「排日移民法」が通過して、行き先を閉ざされた格好になった。
海興は震災の罹災農民救済策として船賃全額補助を内務省に請願し、1924年3月に罹災農民限定で実施された。この東京震災移民を乗せた移民船「シカゴ丸」(同年4月出航)の監督をしたのが、借金問題のために帰国していた松村栄治だった(『北原地価造追悼集』101頁)。
移民の送り先に困っていた日本政府は、多数の応募があったブラジル送り出しが有望だと確信した。議会でも認められ、同年9月以降はブラジル行き全移民に対し、渡航費補助の特典が与えられた。海興はさらに振興するため「支度金」交付を政府に進言して聞き入られ、1932年9月から実施され、移住国策化の流れを本格化させた。
それまで〃庶子〃のような存在——国策的な背景を持つが、民間として行われていたブラジル移住は震災を機に1924年から国策化した。
以後、渡伯者は激増した。1926年から35年までの10年間だけで計13万人を数え、全日本移民25万人の半数以上が集中する〃団塊の世代〃を生んだ。天災や恐慌によって社会のひずみが集中した層が、押し出されるように大挙してブラジルへ向かった。
連載14回の「東亜同文書院」のところで紹介した石射猪太郎は北米勤務後、1924(大正13)年に帰朝してから、《当時いわゆる移民課長と称された、通商局第三課長に就任した。そして石射氏の移民課長は六ヵ年に亘り、その間に海興を通じて、約五万人の移民をブラジルに送っている》(『物故者列伝』30頁)とある。外務省の立場から送り出しに深く関わっていた。
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山根は遠き日の記憶をたどる。「父の話によれば、移民するときに神戸港まで見送りに来た政治家がいて、『貴方がたは国のために国を出る。これは戦場にいく兵士と一緒です』と激励したそうです。今思えば棄民ですよ。あれ以来40年間も、帰るにも金がない、右も左も分からない真っ暗闇のなかで懸命に仕事をして生き抜いてきた。奴隷よりひどい待遇だったと思います。だって、奴隷は食べるものを主人から与えられた。僕らは食べ物さえない時があったんだから」。(つづく、深沢正雪記者)