ニッケイ新聞 2013年9月6日
「ブラジルの歴史的サッカースター」と言えば、誰もがペレの名前を思い浮かべるが、そのペレの登場する約20年前に「ブラジル最初のサッカースター」として注目された名選手がいる。それがこの9月6日に生誕100周年を迎えるレオニダスだ。
「レオニダスが何の先駆だったか?」と訊かれれば、1938年の第3回ワールドカップでブラジルが生んだ初の得点王(7点)に輝いたこともあげられるが、「ブラジルのサッカー選手ではじめて広告のイメージ・キャラクターになった選手」こそレオニダスだったのだ。つまり、その後のロナウドやネイマールなど、現在サッカーのスター選手のイメージを作った最初の選手ということになる。
レオニダスの最初の広告はW杯得点王に輝いた直後の1938年に出た、チョコレート大手ラクタ社の「ジアマンテ・ネグロ」。今日でも同社の人気商品として売られている由緒あるチョコレートだが、最初のスポンサー代は現在の通貨価値で約2千レアルと、格安だった。
レオニダスは友人の企業家の広告に無料で登場した時期もあったが、あるジャーナリストに「広告登場で金が稼げる」と教えられ、積極的に広告のイメージ・キャラクターとなる。その広告は煙草や自身の名前がついた時計にまで及んだ。
1942年には広告活動を行いたいあまり、所属のフラメンゴのアルゼンチン遠征を仮病を使って拒否しようとした。それをフラメンゴが拒んだため、移籍を希望したレオニダスは訴訟を起こしたが敗訴した。
だが、翌43年にサンパウロFCに移ってからは、同チームにサンパウロ州選手権での5度の優勝をもたらす貢献を果たした。レオニダスはそこでもスターで、現在まで知られる赤・白・黒の3本線のユニフォームの原型の発案者となった。
またレオニダスは、オーバーヘッド・キックの創始者としても知られているが、そのポルトガル語名である「ビシクレッタ・キック(自転車キック)」にちなみ、多くのレオニダス・モデルの自転車をサンパウロ内で発売した。
そんなレオニダスは、1950年に37歳で引退。同年行われたブラジルでのW杯には代表召集されなかった。ペレが16歳にしてW杯の話題をさらったのはその8年後となる。
レオニダスは2004年、90歳で世を去った。後年は重度のアルツハイマー病を患ったが、実質上の妻であったアルベルチーナさんによると「いつもお金は持ち歩いていて、経済観念はしっかりしていた」という。(9月1日付フォーリャ紙より)