ニッケイ新聞 2013年9月6日
1910年代の日本において「海外発展」の方向性は、満韓か、南洋か、それとも南米かという大きな分かれ道に来ており、それぞれの立場から懸命に試行錯誤が繰り返されていた時代だった。
1914(大正3)年にブラジルを実地調査して『ブラジル移植民の真相』(以下『真相』)を著した伊東仙三郎は、イグアッペ植民地を評して、《我日本の中農者が、大切なる先祖伝来の土地を棄てて特に選んで行くべき土地では決してないと考える。夫れ丈の勇気があれば自分は国家及故人の上から云うても、土地、金融、人命、財産保護等の安全なる満韓地方の健全なる土地を勧めたい。若し充分の保護を與へられると云う事であるから、近き此地を選ぶ事を切に勧告する。若し会社が後来無資産の農業労働者を此地に送り、教育は勿論諸事充分の保護を加へて植民をすると云うならば全く別問題である》(229頁)と断定した。
つまり、伊東は南米よりも満韓地方を薦める立場だった。伊東の詳しい経歴は不明だが、『真相』の表紙に「陸軍騎兵少佐」との肩書きが明記されているのを見て、ハッとした。日露戦争の建川挺身斥候隊の「敵中横断三百里」ではないが、後の満州における陸軍の役割を考えた時、騎兵が斥候として南米まで来ていても不思議はない。
『真相』の方の本文主旨に対し、衆議院議員も経験し、早稲田大学教授だった地理学協会の重鎮・志賀重昂(しげたか)は「序」に、南洋にしても南米にしても将来の有望性を過剰に謳いあげる記事が当時多かったことに疑念が強く、その点『真相』ははっきりと問題点を指摘していることを高く評価した。《龍宮城の門の開きたる如き記事を公表するは、総じて数理的、科学的に欠乏し居れる頭脳に、漢学流、黄紙的文字(スキャンダル偏重の新聞)を以てするが故である。『南米』に関する記事も亦此の『南洋』の通りである》。
志賀は1886年に海軍兵学校の練習艦「筑波」に便乗して南太平洋の諸島を視察し、翌年、列強がアジアを植民地化する競争の激しさを世に警告する『南洋時事』を出版し有名になった。この当時、日本は『南洋』三群島を占領し、ブラジル移民を開始したばかりで『南洋』や『南米』を楽園のように紹介する出版物が多かった。
つまり海外発展の選択肢として「南洋」と「南米」は同列に論じられた存在だった。
一方、『今日のブラジル』(八重野松男、ジャパン・タイムス社、1929年)には徳富蘇峯が序文を寄せ、関東大震災後に帝都復興を指揮したことでも有名な後藤新平や清浦奎吾が題字を書いている。伊東仙三郎同様にかなり手厳しいイグアッペ評に終止しているのが特徴だ。《母国の同胞はブラジルに於ける日本人の植民地と云えば、イガベ(注=イグアッペ)植民地より他にないと思ふ人すらあり》(588頁)と当時の日本での知られ具合を評した上で、「作物の輸送が不便」「地味が痩せて作物のできが悪い」「地形が悪くトラクターが入らない」「気候が暑く照量が多すぎて雑草が多くて農業に不向き」の4点を挙げた。
《右のような状況であるから折角入植した同胞にしてノロエステ線、底カバナ線方面に転耕している者の多いのは争えぬ事実である。又余の観る所では海外興業会社自身も今日迄当植民地には莫大の投資を為し、サンパウロ州政府との契約もあることだから他に転ずることが出来ず、実にもてあましの體である》(590頁)とまさに赤裸々な書き方をしている。
ブラジル移殖民に賛成であれ反対の立場であれ、ともに「国権論」的な人々であった。〃海外発展〃の選択肢を模索するために、いろいろな立場からの斥候的人材が調査をしていた。(つづく、深沢正雪記者)