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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (41)=〃南米浪人〃岡田芳太郎=蝸牛の如く徒歩16万キロ

ニッケイ新聞 2013年9月7日

〃世界徒歩旅行家〃岡田芳太郎

〃世界徒歩旅行家〃岡田芳太郎(1979年9月11日付けパ紙)

 当時レジストロ地方の植民地開発の魅力は広く知れ渡り、世界から日本人が集まっていた。なかでもレジストロで客死した〃世界徒歩旅行家〃岡田芳太郎は、謎の経歴をもつ人物だ。
 日伯新聞1933年2月16日付け「徒歩旅行家岡田氏 レヂストロで客死」「足跡南北米に普く 行程実に十六万キロ」との記事があり、次の経歴が書かれている。《氏は広島県生まれ、明治34年(1901年)七月苦学を志して布哇(ハワイ)に渡り次いで加州(カリフォルニア)に入ったが、時あたかも日露戦争当時でアメリカ人の侮日甚だしく、ために東部に出たが、最初に受けた民族的屈辱に対する義憤抑ふるに由なく、遂に学業を抛(なげう)ち、一切の物質欲を去って世界徒歩旅行に志した》。輪湖俊午郎と共通した南米転住の動機だ。
 日露戦争後に黄禍論が勃興した米国に嫌気が差し、アラスカ、カナダなどの北米、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガルなどの欧州を巡った。驚くべきは笠戸丸の2年前、1906年にブラジル上陸を果たし、南米各地ウルグアイ、ボリビアなども歩きまわっていたことだ。
 その記事によれば、《爾来三十有二年、南はチェーラ・デ・フェーゴ島より北は加奈陀(カナダ)アラスカの端まで、南北米を隈なく踏破、五十キロの全財産を蝸牛(かたつむり)の如く背負って行程実に十六万キロに及んだ》
 朝日新聞など日本の新聞雑誌に投稿して、その原稿料を旅費に当てていたというが、果たしてそれだけで生活ができたのか。
 1979年9月11日付けパ紙読者欄には沢田多策が「岡田芳太郎について」との一文を寄せ、《氏の遺品である手帖を二三冊読んでみたところ、旅行した国の地理、経済政治など克明に記入してあったので、私の想像では当時の軍部派遣情報部員ではないかと思われた》との感想を載せた。
 おそらく情報部員というよりは〃大陸浪人〃ではないか。『真相』を書いた伊東仙三郎が「陸軍騎兵少佐」で、斥候的な役割をしていたのであれば、大陸浪人的な人物が来ていてもおかしくない。
 明治初期から第二次大戦までの間、中国大陸を中心に居住して独自の政治活動をしていた日本人を大陸浪人と呼ぶ。代表格は、日露戦争開戦以前に対露諜報活動に従事した長谷川辰之助、興亜会創立者の曽根俊虎(海軍大尉)、日本で孫文らを支援して辛亥革命を支えた革命家の宮崎滔天などで、〃支那浪人〃とも呼ばれた。
 『日本歴史大事典』(小学館、2000年)の同項には《国家主義・対外膨張論を抱いて大陸各地に居住・放浪した民間日本人の通称》と定義している。
 また、ウィキ同項によれば《1870年代から80年代にかけて青年時代を過ごした若者たちであった。彼らは少年期あるいは誕生前に幕末・明治維新の騒乱期を迎え、士族反乱や自由民権運動の挫折と明治政府体制の確立によって新しい国家作りに参加できなかった層でもあった。彼らは続く欧化主義への反発などから国家主義あるいはアジア主義に目覚め、日本を飛び出して中国大陸や朝鮮半島に活動の舞台を求め、日本の大陸への進出に何らかの形で関与しようとしたのである》とある。
 まさに水野龍も明治維新期に幼年時代を送り、自由民権運動に挫折し、明治政府体制に参画出来ずに歯軋りする中で、南米移民に「日本人の海外発展」という活路を見出した人物だ。ブラジル軍艦の柔道教師として旅券なしに渡伯したといわれる三浦鑿の破天荒な行動も、実に大陸浪人的に見える。そんな時代の文脈に沿った人物が、移住初期には〃南米浪人〃として来てもおかしくない。
 岡田は1933年に享年57歳、病気のためにレジストロ市で亡くなり、地元日本人会が手厚く葬られた。(つづく、深沢正雪記者)