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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ =(42)=治の遠大な旅路の終着点=「父は好きなように生きた」

ニッケイ新聞 2013年9月10日

「父から14年間も便り一つなかった」と語る清丸米子

「父から14年間も便り一つなかった」と語る清丸米子

 聖南の〃日本村〃レジストロは、何人もの明治男子の遠大な旅路の終着点として選ばれた地だった。佐々木定一は最初、南米の太平洋岸ペルーに移住したが、歩いてアンデス越えをし、アマゾン河流域にも定住の地を見つけることが出来ず、さらに南下してサンパウロ州ノロエステ線でも腰を落ち着けられず、最終的にレジストロへ行き着いた。
 だから定一の娘、米子(80、二世)=レジストロ在住、3月12日取材=は同地5部ラポウゾ区生まれ。夫・清丸清は同地入植80周年の折、同文化協会を創立させた立役者だ。
 定一は東京都八丈島の出身で、絶海の孤島に将来を見いだせず、南米の広大な大地に夢を抱いた。妻と生まれたばかりの子供二人(3歳、3カ月)をおいて、1915(大正4)年に単身南米に向かった。「3年して金を儲けたら帰ってくる。そういって家を出て行ったそうです。金儲けの夢を果たすためにペルーを選んだようです」。
 定一は最初ペルーに渡り、砂漠気候の地で葡萄園の農業労働者として1年ほど働いた。当初は「アンデス山脈に積もった雪解け水があるから大丈夫」と言われて納得していたが、徐々に「雨が全然降らないとこなんて人が住む所ではない」と思うようになり、南下してボリビアに新天地を求めたが、「麻薬を作っている人々がいて危ない」と判断した。
 さらに南下してチリまでいった。遠くにアンデス山脈を臨み、寒流が流れており、「日本に似ていると喜び、漁業を始めたが魚が売れなかった」ので、逃げるようにペルーに舞い戻った。
 1918年に定一と従兄弟と友人の3人でアンデス山脈を歩いて越え、アマゾン川を船で下り、マナウス、ベレンにも1年ほど滞在した。「ベレンで着いた次の日から測量技師の仕事が見つかり、さっそく始めたが、巨大なスクリー(水蛇)を見て怖くなり辞めた。周りの人間がどんどんマレッタ(マラリア)で死んでいくのに魂消て、ここも辞めた」という。
 翌1919年にはサンパウロ州まで南下した。「おおかた〃金のなる木〃があるとでも聞いて降りてきたんでしょう」と米子は笑う。実際にノロエステ線の珈琲園で働いて金を貯め、レジストロに土地を買って入植した。島育ちの血ゆえか、あえて海に近い聖南を選んだ。
 南米大陸の背骨、アンデス山脈の西側と東側をそれぞれ縦断する壮大な旅の果てに、ようやくその安住の地は現れた——。日本を発ってから苦節14年目、1929年に妻と子供を連れてくるために一時帰国した。
 「母が言うには、15年間も便り一つなかった夫が、突然現れたそうです。まるで浦島太郎だったそう。そりゃそうですよね。3歳だった子供が18歳ですから」と米子は想像する。当然のこと「母も日本生まれの姉もブラジル行きに反対したそうですが、父が『10年したら必ず日本に戻るから』として無理やり1930年に連れて来た」。その後レジストロで兄と米子が生まれ、「日本から連れてきた兄弟とは親子のように年が離れていた」という。
 「そして約束の10年が経つ前後に戦争勃発の雲行きとなり、帰れなくなりました。戦後も母は『日本に行きたい』とくり返し言っていました。でも、日本に戻る時のため貯めていたお金を戦後、日本で困っていた兄弟に送金してしまったそうです」。結局、母は一度も訪日せず、1974年に亡くなった。
 「父は好きなように生きた。その分、お母さんは大変だった。だって15年間も義理の母、二人の子供の面倒を見たんですよ。その上、行きたくなかったブラジルに…。いつも日本が恋しい、懐かしいと言っていました」と振り返った。(つづく、深沢正雪記者)