ニッケイ新聞 2013年9月13日
2005年に起こったメンサロン事件の影響もあり支持率を落としたルーラ政権ではあったが、2006年の大統領選でルーラ氏はサンパウロ州知事のジェラルド・アウキミン氏(ブラジル民主社会党・PSDB)を、決戦投票でかわして2期目の任期を迎えることとなる。
だが、この2期目でルーラ政権は躍進を遂げた。第1政権時の2004年以降、国内総生産(GDP)は5・7%、3・2%、4・0%と好調だったが、2次政権初年の2007年には6・1%、08年には5・2%を記録した。09年こそアメリカに端を発した経済危機の煽りを受け0・3%のマイナス成長となったものの、その翌年の10年には7・5%と大きな成長を記録した。
この記録的な経済成長により、国際通貨基金(IMF)への国債も2009年には完済し、純債権国となった。ブラジルは中国、インド、ロシア、南アフリカ共和国と並ぶBRICs諸国として、新興国の代表的な存在へとのし上がった。
この経済成長を背景にした貧困層に対する福祉生活も功を奏し、貧困層から中流へと上がる層も増え、Cクラス・Dクラスと呼ばれる所得層を厚くして行った。
また、外交においては、アメリカと敵対しない形で南米諸国や中東、アフリカ諸国との関係を深め、第3世界諸国の中でのリーダーシップを取った。10年5月にはイランとトルコとの3国間で三国核協定を結び話題となった。
こうした国の右肩上がりの状況を受け、07年には14年のサッカー・ワールド・カップ、09年には16年のリオでのオリンピックといった国際的なスポーツ行事の開催も決めた。
これらの業績によりルーラ政権への支持率は70%を超える人気となり、09年には激貧の子供時代からのサクセス・ストーリーを追った、ルーラ大統領の伝記映画まで製作された。
こうした強い勢いのまま、ルーラ大統領は2期目の任期を終了した。後任にはルーラ氏が推薦する、官房長官〜鉱山相を歴任してきたジウマ・ロウセフ氏が、事前の知名度の低さにも関わらず、サンパウロ市長・知事を歴任し02年大統領選の雪辱に燃えていたジョゼ・セーラ氏(PSDB)を決選投票の末に下し、女性初のブラジル大統領の座をつかんだ。