ニッケイ新聞 2013年9月18日
「天南現出 日本村」。力強い筆使いで、海興社長だった井上雅二はそう『イグアッペ植民地創立二十周年記念帳』(1933年、安中末次郎)に揮毫を寄せている。「天の南に現れ出でる日本村」という言葉には、海外興業の植民地像が如実に表されている。彼らの頭の中では、そこは「日本の飛び地」のようなイメージであったようだ。
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『海興』の資本金の7割余りを日本郵船・大阪商船・東洋拓殖の3社が支えていたと前節で説明した。ブラジル移民輸送を担当した日本郵船と大阪商船が大株主であるのは分かるとしても、もう一つの大株主「東洋拓殖株式会社」とはどんな会社か。
これは、やはり桂太郎が1908年12月に作った会社で、目的は「満韓地方」を殖民開拓することだった。ウィキ「東洋拓殖」項には《桂太郎が中心人物となったこの東洋協会の案が政府内部で審議され始め、1908年2月に「東拓創立調査会」が発足。委員長の岡野敬次郎(内閣法制局長)、勝田主計(大蔵省理財局長)、児玉秀雄(総督府書記官)の主導の下に骨格が作られた》と説明されている。
つまり、勝田主計が大蔵省局長時代に『東拓』を創設し、大蔵大臣時代に『海興』を創設したという一つの政治的な流れが見えてくる。
『東拓』は《戦前の日本における南満州鉄道株式会社(満鉄)と並ぶ二大国策会社であり、大東亜共栄圏内の植民地政策に関して特権的な利権を保有。北はソビエト連邦国境から南は南方諸島まで、関連会社・子会社は85社を超えた》と同項にはある。
よく見ると、その子会社の一つには「アマゾニア産業研究所」(理事長=上塚司)があった。つまり、『東拓』は高拓生を送り出した組織の大株主の一社でもあり、ブラジル移住事業を支える柱の一つでもあった。
《日露戦争による朝鮮の実質的植民地化に成功した日本資本主義は、伊藤博文を初代統監として送りこみ政治的支配を貫徹しようとする一方、桂太郎が主宰する東洋協会が朝鮮経営にのり出し、「韓満地方」を視察するとともに、桂太郎を先頭に政界財界に働きかけ、政府が創立から8年間30万円ずつの補助金交付、社債の保証を始めとした保護を含め、国策として東拓の設立を推進したのであった。明治41年東拓法が成立し、その主要業務が農事経営、移民、金融となり、資本金一千万円で、同年12月東京において創立総会が聞かれた。このように東拓は最初から、政府支配者層の「息のかかった」国策会社としてスター卜したのである》(「東洋拓殖株式会社創立期の実態」大鎌邦雄、72頁、1972年3月、北海道大学農経論叢)とある。
『東拓』は資金と同時に、幹部だった龍江義信を中心的な人材として『海興』に送り込んた。『物故者列伝』(1958年、日本移民50年祭委員会、116頁)によれば、1917年12月に海興が創立されると同時に、『東拓』幹部の龍江を常勤監査役として送り込み、翌1918年2月に専務取締役に。1937(昭和12)年5月に海興を辞める時まで、20年間にわたって海興の中軸を支えさせた。
《大正十三年以降、龍江氏は、井上社長の女房役として、この名コンビは会社の業績をあげつつ、移植民発展のために、多大の尽力をしたのであった。昭和十二年五月、海外興業海部式会社を辞任後、海南産業取締役会長、南米土地代表取締役、あそか財団理事長等を歴任した》(『物故者列伝』117頁)
つまり、桂太郎ら日本側の政治家は「満韓地方」と「南洋」「南米」それぞれに有機的に手を伸ばす形で植民事業を進めていたようだ(つづく、深沢正雪記者)。