ニッケイ新聞 2013年9月20日
戦争状態にまで発展していた戦勝派と認識派の戦いは、1947年1月の森田クニャード誤殺事件(既述)を最後に、パタリと終った。
終わった理由は色々考えられる。
警察と認識派自警団の反撃に、戦勝派の過激分子が追い詰められ、決起する人間が種切れになっていた。
臣道連盟が、2月に名義解省宣言なるものを出した時、外部には、臣連が崩れた……と受け止められた。これが戦勝派の士気を阻喪させた。
邦字新聞が再刊され、戦勝派の気分を代弁する記事もあり、不満を晴らすことに役立った。
……等。
ともかく新たな襲撃事件は起こらず、自然、警察と認識派自警団の攻勢も止んだ。
以後、思想的な対立はなお続いたが、血腥い事件は起こらなかった。
しかし大きな問題が残された。以下の様な。──
認識派史観が黙殺する数千人の冤罪
オールデン・ポリチカや地方警察は、四月一日事件の後、戦勝派など千数百人を狩り込んだ。その後も事件が起こる度に、これを続け、狩込みの総合計は数千人となった。
この総合計数は、資料によって異なり、8千、6千、4千……とマチマチである。従って、ここでは、数千人と表現しておく。
ともかく、そういう大量の人間が警察に狩り込まれた。狩り込まれた人々は、辱め、虐待、拷問、理不尽な取調べを受けた。その被害の度合は、人によって違っていたが、拷問の後遺症で病み続けた人も少なくなかった。死者も出た。
天皇の写真や日章旗を──暴力で強引に──土足で踏まされ、以後長く、苦しんだ人もいた。 ところが、検察側が起訴できたのは、逮捕できた襲撃実行者だけであった。これは、数千人の殆どが冤罪であったことを意味する。しかるに、警察やその上部機関が非を認め、何らかの措置をとったという記録は見当たらない。
さらに、その狩り込んだ数千人であるが、拘引時、どうやって、その対象を選び出したのか?
警察は、四月一日事件の直後は、路上やバールから、誰かれ構わず引っ張った。が、これは拘引のごく一部で、他は相応の根拠があって、そうした筈である。
しかし、警察は、オールデン・ポリチカにしろ地方警察にしろ、日本人社会のことは判らず、自力で戦勝派の中から、何らかの容疑ある分子を探し出すことなど出来なかった。捜査の下働きに日系人がごく少数居たが、それだけでは不可能である。
臣道連盟がオールデン・ポリチカに一杯食わされて提出していた本・支部の役員名簿(既述)に載っていた人々以外は、誰かの通報によった筈である。
この通報は、無論、邦人社会の地域地域の情報通でなければ、無理である。ここに通報者……戦勝派側の言う「密告者」の存在が浮上してくる。 密告という言葉について、憩の園の資料(既出、入園者の聞取り調査)に、一女性(終戦時19歳)の次の様な話が記載されている。
「お父さんは勝ち組のアレで、一年留置所へ連れて行かれましたもんね。その時、お母さんと二人で家を守って、そして一生懸命お母さんと二人で働いて、私は毎月サンパウロの留置所に来ました。当時はポンペイアに住んでいました。お父さんは勝ち組だったのです。近くに住む悪い日本人が密告したからです」
警察への密告者の存在については、戦時中も盛んに噂されたが、終戦直後起きたこの騒動でも同じであった。
疑いの対象は、認識派の主要メンバーであった。実際、彼らは警察と連携していた。無論、彼らからすれば、密告などという言葉は心外であった。自衛のための情報提供であった。もとより自衛のため警察に情報を流しても、悪くはない。ただし、それが正確ならば……である。が、結果から見れば、間違った情報が流され、冤罪により、数千人が被害に遭った。
認識派史観は、この、通報、密告が惹き起した数千人の冤罪という事実を黙殺している。(つづく)