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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(83)

ニッケイ新聞 2013年9月21日

 虚名のみ残して……

 ここで、これまで断片的に記してきた臣道連盟の実態を整理しておく。補足事項も加えて。──
 臣道連盟は、戦時中にあった興道社が、終戦直前、改称した団体である。
 臣道という単語は、日本で昭和15(1940)年から流行した。近衛文麿首相が「臣道実践運動」を提唱、これが広く国民の人気を集めた。以後、国策の基本となった。
 臣道の二文字は、当時のブラジルに於いても、日本人の心の琴線にふれる単語であった。それで興道社は、臣道連盟と改称したのである。
 興道社は、祖国の苦境に多少でも役立つべく、利敵産業の防止運動を行った。ただ、これはブラジル政府にとっては、政治的なサボタージュに当った。それで、興道社は、その存在を秘密としていた。
 が、臣道連盟への改称の直後、終戦となり、利敵産業の防止運動も秘密結社であることも、必要なくなった。ために、いずれも止めている。
 臣連は新事業目的として大東亜共栄圏への再移住を掲げ、公開団体として、活動を始めた。
 この再移住構想は、この時、急に生まれたものではない。戦前、邦人社会で唱えられ、戦中、温め続けられた「海南島への再移住」構想と同じものである。
 臣連は、祖国の勝敗に関しては、戦勝説をとった。戦争に勝った──ということは、その再移住に向かって動き出す時期が来たということであった。その準備のため、まず子弟教育に着手した。 臣連の戦勝説は、加盟した人々にとって何ら違和感はなかった。戦前・戦中、つまり1945年の8月15日まで信じてきたことであり、それを8月16日以降も信じ続けただけのことであった。それと再移住、そのための一時帰国が、彼らを魅了した。加盟者は、増え続けた。
 臣連は、会費を集め、連盟の運営費に充てた。 加盟者は2〜3万人を数えたという。しかし、これは水膨れさせた数字であった……と臣連関係者も話している。実際、そうであろう。2、3万もいたら、その会費で、会計は潤沢であった筈だ。会費は5クルゼイロで、3クルゼイロを支部に留め、残りの2クルゼイロを本部に納めていた。
 ところが、本部の場合、会計担当の職員であった佐藤正信の自分史によると、運営費を、地方理事たちの大口寄付に頼っていたという。
 彼の父親で本部の理事だった正雄も、その小著に「(自分は)臣道連盟の発起人の一人となり、全財産を投入して没頭した」と書いている。
 正信は、1946年の四月一日事件でオールデン・ポリチカに拘引された後、刑事たちから「本部が大金を隠している」と疑われ、拷問を受けた。が、本部には金は集っていなかった……とも記している。
 つまり実質加盟者は、公称よりズッと少なかったと見るべきである。
 その臣連は、発足から僅か9カ月後の1946年4月、オールデン・ポリチカの弾圧により、壊滅状態となった。さらに10カ月後の1947年2月には、事実上の解散となった。後に再建が図られたが、内紛が起こり分裂、いずれの派も自然消滅した。
 臣道連盟は、世間が思っていたような強力で不気味な組織ではなく、ただの団体であった。広報活動や青少年教育は、多少したようだが、事業面では所期の目的は何も果していない。存続期間も、僅かであった。
 (分裂後、分派の一つが臣道連盟を名乗り、昭和新聞を発行したが、これも数年で消えている)
 それが実態である。しかし、その名前だけが、この国の犯罪史上、日系社会史上、大きく残った。秘密結社、テロ団という物凄い虚名となって──。
 付記しておけば、臣道連盟という単語は無論、団体名である。が、筆者は取材中、二世やブラジル人の中に、会話の中で「戦勝派」と言うべき所で「臣道連盟」と表現する人が少なからず居ることに気づいた。彼らは「臣道連盟」を団体名とは知らず「戦勝派」の意味と勘違いしていたのだ。ともかく、認識派史観に限らず、基本的な状況誤認が、今もなお続いている。(つづく)