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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (54)=山積する海興への借金=「宣伝に偽り」夜逃げ続出

ニッケイ新聞 2013年9月26日

右側から精米所、海興事務所、その前が船着場だった

右側から精米所、海興事務所、その前が船着場だった(吉岡初子さん所蔵)

 レジストロ生れの吉岡初子さん(81、二世)は「KKKK(海興)には発電機があって、そこだけ夕方6時から夜10時までは電気をつけた」という。まさにそこだけ文明の〃灯り〃が点っていた。原始林に囲まれた中、リベイラ川の川沿いに、そこだけ忽然と開かれた人間世界があった。
 リベイラ川の岸に建てられた立派な海興の精米所の建物。そのすぐ前に船着場があり、そこから乗り降りしていた。
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 日本直来の入植者の多くは土地を購入する必要があるため、最初から資金的に無理をしており、海興に多額の借金(渡航費、土地代、営農経費など)をしていた。
 連載第38回で説明した通り、伯剌西爾拓殖株式会社はレジストロ植民者第1回募集が惨憺たる結果に終わったため、《現地側から絶対反対の意見があったにも関わらず、無理やり算段して植民者に移住資金を融資することにした》。移住早々に返済できるほどの利益が上がるわけはなく、その無理が入植後に重くのしかかり、後々まで移住者を苦しめた。
 海興は植民も営利事業と考え、容赦なく返済を催促する方針に変わっていた。入植者は借金を払いたくても払えない状態に置かれ、5、6年もすると土地を捨てて夜逃げし、植民地のあちこちに空き地が目立つようになってきていた。
 松村昌和は「だから父を先頭に、植民者は『海興の宣伝に偽りあり!』って抗議したんです」と当時を振返る。「このままでは植民地は滅亡する。日本に行って政府を動かす。日本で実情を訴えて、植民地をすくわにゃいかん。そう父は考えたのです」。そのため父栄治は1923年、早々に一時帰国している。
 しかし、まさにその訪日中の1923年9月、関東大震災が帝都を襲った。日本政府は海外同胞を救うどころではなくなってしまった。
 栄治は仕方なく、青柳郁太郎に直談判し、「植民地に残っている借金を待ってくれ」とお願いした。「父は植民者のことばかり考え、海興は会社のことばかり。父は海興に対してズバズバものを言ったから一番の嫌われ者だったと思います」。
 『信州人』(76頁)にはこうある。《1932年には、入植当時の会社からの貸入金(渡航費、土地代、道路建設費など)が莫大な金額となった。そのうえ為替関係の悪化で、このままでは自滅のほかなしと考えた松村栄治は、債権者約二〇〇名を糾合して債務整理案をたてて会社と交渉し、三年目にいくらかの要求が受け入れられ、当初の四分の一に減じて整理している》。
 松村家では夜逃げを助けたこともあった。レジストロからジュキア方面に行く遡江船は、海興の事務所前にある船着場からでるので人目がある。夜逃げは荷物が多く、ひと目で分かってしまうので、そこは使えない。夜逃げする場合は、海興より5キロ程川下にある船着場で下江船に乗るのが一般的だったという。まずイグアッペに行ってサントス行きの船を待って、逃げることが多かった。
 下江船は朝6時にそこへ立ち寄る。昌和は「たまたま我が家がその川下の船着場に近かった。だから夜逃げする家族は前日の晩に我が家で一緒に夕飯を食べ、月明かりの夜道を3キロほど歩いてそこまで行って船を待ったものです」と振り返る。
 「植民地の1割くらいの人がいなくなった。でも、夜逃げするのも仕様がなかった。だってこれを見てください」といって、昌和は500人分の渡航者名簿を見せた。まるで植民地の戸籍謄本のようだ。家族ごとに渡航年月日、死亡出生が小さな字で書き込まれている。
 昌和はその名簿を指さしながら「幼児の死産がたくさんあるでしょ。それに産後、翌日から一カ月ぐらいまでの間に死んでいる赤子が極端に多い。栄養不良だとか、医者の不足とかね。居(い)たくても居(お)れなくての夜逃げだったんです」と代弁をした。(つづく、深沢正雪記者)