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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第130回

ニッケイ新聞 2013年8月3日

 中田編集長の叱責を受け、安藤の助言をもらっても児玉は午後になとる編集部を出た。行く場所は人文研だった。一九七八年は移民七十周年で、日系社会は祭典に向けて様々な準備を進めていた。移民史料館の創設もその一つで、奥地に住む日系移民から様々な資料が人文研に届けられた。中には幻の資料と言われていた勝ち組の「昭和新聞」「中外新聞」、臣道連盟が発行した月刊誌「輝号」まであった。児玉はそれらを片端から読み、日本から原稿料が届くと、それらの資料をコピーした。

 週末の取材はいつも通り進めた。テレーザと会うのは二、三週間に一度に減り、やがて一ヶ月に一度になり、二ヶ月おきとなった。テレーザに会うたびに、トニーニョが寂しがっているので、もう少し会う回数を増やしてほしいと言われたが、週末は完全に取材に時間を取られ、その余裕はなくなっていた。
 トニーニョはやはり寂しいのか、夜中に起き出して、サーラで一人テレビを見ている時があった。そんな時は話し相手になりながら、トニーニョが寝付くまで一緒に過ごしていた。トニーニョが児玉を父親のように慕っているのは感じていたが、かえってそのことが児玉の負担になっていた。それも足が遠のいた理由の一つだった。
 結果的に、週末はほとんどマリーナと過ごすようになった。マリーナの日本語の理解力はそれほど高いものではなかった。取材前にその日の取材目的をわかりやすい日本語と、児玉の稚拙なポルトガル語で説明した。取材相手が一世の時は、何の問題もなく児玉だけで取材は進めることができた。しかし、相手が二世になると、彼女がそばにいてもらわなければ、児玉のポルトガル語だけでは取材はどうにもならなかった。
 日本に原稿を送っている事実は、中田編集長にいずれは知られるだろうが、そうかといってパウリスタ新聞の安月給だけでは生活さえ困難になる。取材を止めるわけにはいかなかった。マリーナと過ごす時間が多くなるに連れて、彼女の日本語の習熟度は、児玉のポルトガル語とは比較できないほど高くなった。
 戦後の勝ち組、負け組の抗争についても、児玉の説明だけでは十分に伝わらなかった点は、祖父母に聞いてくるのか翌週には理解を深めていた。マリーナは児玉にとって有能な通訳であり、アシスタントになっていた。それに児玉が病気で倒れた時にトレメ・トレメまで看病に来てもらって以来、児玉自身、マリーナに特別な感情を抱くようになっていた。
 マリーナに恋人として付き合ってほしいと告げたいと思った。しかし、その前にテレーザとの関係をはっきりさせなければという気持ちもあった。
 真夏のサンパウロではナタール(クリスマス)の飾り付けがいたるところで行われていた。デパートや公園などには、夏の仕掛け花火の様なイルミネーションが出現した。児玉はマッピン・デパートに行き、テレーザが気に入りそうなピアスとトニーニョが欲しがっていたサッカーボールを買った。
 コンソラソンにあるテレーザのアパートに行くのは気が重かった。週末に行けば泊まれと言われるのは明らかだった。クリスマスプレゼントを置き、別れを告げて帰るつもりで、児玉は平日の夜、テレーザがミッシェルに行く頃にアパートを訪ねた。
 テレーザは支度をしてアパートを出るところだった。児玉はプレゼントを渡した。
「一緒に出よう」
 テレーザが「泊まって」という前に児玉が告げた。
「プレゼントは帰った後で見るわ」
 トニーニョはソファに座り、包み破り始めた。
 部屋を出ると、アパートの前で児玉はタクシーをひろった。
「店まで送るよ。話したいことがあるんだ」
 いつもとは違って表情の堅い児玉に、テレーザも何かを感じとったようだ。
 タクシーが走り出すとテレーザが聞いた。
「話って、なに」(つづく)


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