ニッケイ新聞 2013年8月7日
踏み絵
オールデン・ポリチカは、四月一日事件を機に留置した人々を素っ裸にして放置し辱めたり、家畜の様に扱って虐待したり、殴る蹴るの拷問を加えたりした。
中でも被留置者を愕然とさせたのが、天皇の写真を踏ませる──という拷問である。
当時の日本人には想像を絶する行為だった。死にまさる苦しみであった。その彼らが気づいたのは、踏み絵などという拷問は、日本人でなければ思いつかぬ筈……ということである。
その踏み絵という拷問を思いついた日本人は誰か……と疑う被留置者たちの目に映ったのが、オールデン・ポリチカに自由に出入りしている二人の日本人であった。藤平正義と森田芳一である。藤平は、いつも少し離れた所から取調べの様子を見ていた。森田は刑事たちが被留置者を訊問する時、そばで通訳をしていた。
踏み絵の時は、森田が同じ室内に立って見ていた。
被留置者たちは、この踏み絵という拷問を刑事に提案したのが二人ではないか、と疑った。仮にそうではなくとも、森田が、天皇の写真を踏ませるという拷問を制止せず、ただ見ていたのは、日本人として絶対許されぬ行為──と激しく義憤した。
その義憤者の誰かが、外部と連絡をとることに成功した。そして、このことが、首都リオデジャネイロのブラジル政府へ伝わった。
これには、司法大臣が驚いて、サンパウロへ飛行機で急行、踏み絵を中止させた。
それで踏み絵は短期間で終わった。が、その怨念は残り、9カ月後、罪もない人間が一人、誤殺されることになる。
襲撃は始まったばかりだった
四月一日事件の一週間後の8日、先に記した様に、オールデン・ポリチカは「臣道連盟は壊滅した」と、誇らしげに発表した。が、実は、以後も銃声が各地で響き続けた。襲撃は始まったばかりだったのだ。
サンパウロ市内では、4月11日、藤平正義が狙撃された。自分の事務所に、外部から銃弾を撃ち込まれた。狙撃者は不明であった。が、藤平は、後々まで、臣道連盟であると思い込んでいた。
続いて4月、マリリアで2件の襲撃があったのを初めとして、州内各地で翌年一月まで同種の事件が頻発する。
この内、サンパウロ市内で起きた事件を、まず記す。地方での事件は、別途、取り上げる。
6月2日、脇山甚作大佐が落命。
四月一日事件の実行者で、逮捕を免れた5人の内4人が、ボスケ・デ・サウーデ区の脇山宅を襲ったのだ。
これより先、彼らは、市街地や近郊に潜伏していた。が、5月末(連絡がとれなかった蒸野を除く)吉田和訓、北村新平、山下博美、日高徳一の4人が会合、再度の襲撃を実行することにした。
目標は、終戦事情伝達趣意書の筆頭署名者である脇山を選んだ。
日高によると、四月一日事件以降の展開は、彼らにとって全く心外のことであった。関係もない無実の人間が、巻添えになって多数、警察へ拘引・留置されていた。地方では新しい事件が起きていた。
そこで4人で話し合って、これを最後に自首することにした。
そして、6月2日、夕刻、4人は来客を装って、脇山宅を訪れた。サーラに招じ入れられると、大佐に自決勧告書と短刀を差し出した。大佐は勧告書をユックリ最後まで読んでいた。読み終わったところで、自決を勧めると「もう歳だし、そんな元気はないヨ」と答えたので、発砲した。
4人は直後、最寄りの警察に出頭した。そこからオールデン・ポリチカへ送られた。(つづく)