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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(68)

ニッケイ新聞 2013年8月17日

 同日夕刻、ブラウーナの北西の小さな町ニホンランヂア(現ビラッキ)で、森兄弟が射殺された。
 この事件に関しては、その兄の長男正秀から貴重な話を聴くことができた。(氏は本稿で、すでに登場している。)
「被害者の名前は森五一、森丸井。五一が弟、丸井が兄で私の父。
 叔父の五一は大きなバールをやっていた。玉突き場があった。父の丸井は、近所で洋服屋をやっており、毎晩、そこで玉突きをしていた。
 五一は、短波用の高性能の大型ラジオを持っており、戦時中は東京ラジオを聞いていた。地元の警察署長と親しくしており、署長は黙認していた。知人や親戚が、よく戦況を訊きに来ていた。終戦の詔勅は、ハッキリ聴こえたそうだ。
 しかし、叔父はニホンランヂアの認識派の指導者というわけではなかった。指導者という意味では、ヤナセさんという人がいた。
 当日、二人の見知らぬ若い男が町に現れ、ヤナセさんの所へ行った。が、当人は、ビリグイへ行って留守だった。それで叔父を……ということが考えられる。
 動機は、勝ち負け(認識)問題以外、例えば怨恨の線は考えにくい」
 当時ニホンランヂアには、梁瀬喜六という認識運動の推進者がいた。ヤナセというのは、この人物のことであろう。
 夜7時過ぎ、若い男二人が森五一のバールを訪れ、五一を銃撃した。
 弾は後頭部を貫通、兄の丸井も胸部を撃たれた。丸井は巻添えになった。
 襲撃者二人は逃走した。
 なお、正秀は叔父の死後、そのバールの経営を引き継いだ。先に触れたマツユキ、ノボル、クラリッセ殺傷事件は、数年後、隣家で起きている。

 森兄弟の死の翌11日、葬儀が行われたが、これに出席した客の中に佐羽内治という五一の知人が居た。ニホンランヂアの近くにあるベラビスタという植民地の住人であった。
 やはり森正秀によれば、佐羽内は、五一の生前、よく店を訪れ、東京ラジオの内容を訊いていた。
 葬儀から帰宅した直後、7時頃、何処からか現れた二人の若い男に射殺された。これまた射殺者不明である。
 隣のサントーポリス植民地に居った梅田清(既出)は「当人は認識派であったが、指導者というほどではなかった。が、指導者の清水建三氏と親しかった。襲撃者は清水氏を狙い、当人が不在だったため、佐羽内をやったと思う」と語る。
 同じ植民地に居った岩井邦親(在サンパウロ)によると、佐羽内は、よく皇室の悪口を言っていたという。
 12日、そのサントーポリスでも、事件が起きた。
 一資料には「植民地の富永宅に3人の男が来て、同家の家族や居合わせた客と乱闘となった。家族と客は負傷、内、客の一人豊田重男が病院へ運ばれた後、死亡した」とある。襲撃者は藤本明、名和昇と記されている。
 ただし、この一件は単なる喧嘩とする説が、事件直後からあった。
 梅田清は「(認識問題は)関係なかったように思う」と言う。鳴海忠夫も、同意見であった。
 が、森正秀は「後で、富永の家族と会ったら『向こうが、鉄砲をパンパン撃ってきたので、こちらも撃って追い返した』と話していた。(認識問題は)関係あったと思う」と言う。
 この森の話だと、乱闘ではなく撃合いである。認識問題との関係についての見方も梅田、鳴海と違う。
 やはり12日、ブラウーナの認識派の斉藤宅へ不審人物、接近。この時は無事に終わった。
 以上の事件は10、11、12日に集中して起きている。事前に襲撃側に連絡があったのかもしれない。襲撃者が二人一組のケースが多いことも気になる。相談して、そうしたかの様でもある。 が、詳細ついては不明である。(つづく)