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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(70)  

 

ニッケイ新聞 2013年8月21日

 

 やはり7月17日、カフェランヂアから北東に60キロほど行った地点、ボルボレーマで、岩田篤冶が殺害された。(トクゾウと記す資料もある)置き手紙が残されており「神風迅雷特攻隊」と記されていた。一資料は襲撃者を「小野シンロウ、渡辺キュウサク」と記しているが、それ以外のことには触れていない。
 事件は、翌18日も起きた。
 カフェランヂアの西方30キロのゼツリーナで、上塚第二植民地の産業組合理事長、堀内藤次が、射殺されたのである。
 襲撃者は、資料類には桜井次郎、土屋栄吉とある。が、ほかにも多数が、この件で、地元の警察に拘引され、長期に渡って留置された。
 堀内は理事長といっても、組合は小さく、当人は認識派だったが「殺されねばならない程の存在ではなかった」という説もある。
 これらカフェランヂア方面の事件も、17、18日に集中して起きている。ここも、襲撃者たちの間で。事前に連絡があったのかもしれない。が、やはり、それを裏付ける手がかりは見つからない。

 パウリスタ延長線方面

 同時期、火の手は、パウリスタ延長線方面でも上がっていた。
 7月16日、バストスで山中弘が、市街地の自宅で狙撃され、胸部と右大腿部に重傷を負った。
 夜、客があったので、ポルタを開けると、そこに立っていた男が、両手に構えていた二丁の拳銃を、続けさまに撃った。
 山中夫人も、足指に軽傷を居った。
 筆者は、その20年後の山中を知っている。好人物であったが、ガラガラ声で話し、時に激しい怒鳴り声を上げることもあった。
 7月18日。バストス西北30キロ、イヌビアの薬局店主、浅野利実が、見知らぬ若い男二人に撃たれ負傷した。浅野は認識派ではあったが、別段、同地の同派で重きをなしていたわけではない。
 7月23日、バストスで、梶原武男が、夜、帰宅途中、棉畑の中から、狙撃を受けた。8発響いたという。傷は受けなかった。ただし、梶原がどういう人間であったかは、資料類に説明はない。襲撃者も不明である。

 オズワルド・クルース大暴動(?)

 地方に於ける襲撃事件が続く中、派生的に、異様な騒ぎが発生した。
 7月末から8月初めにかけて起きた所謂オズワルド・クルース大暴動がそれである。
 しかし、これは実にオカシな話である。資料と証言の間に大きな差があるのだ。
 まず、資料であるが、パウリスタ新聞の『コロニア戦後十年史』によれば──。
 その暴動に先立って、7月23日午前3時頃、オズワルド・クルースの認識派、阿部豊宅が爆破され、同じく鈴木出世宅が放火された。
 阿部宅の場合、床下へ仕掛けられた爆弾が破裂した。屋根までふっとばし、爆音は2キロ先まで聞こえた。鈴木宅は、付近の住民が発見、大事にならなかった。
 住民は、州内各地の日本人社会で相次ぎ起きている──臣道連盟によるテロと報ぜられていた──襲撃事件を知っており、それが、ここでも始まった……と神経を尖らせた。
 そうした中、7月30日夜、町で日系人によるブラジル人の殺害事件が起きた。これ自体は単なる喧嘩であった。が、住民は一段と神経過敏になった。
 不穏な空気が流れた。
 翌31日朝、町の中心部で、突如、一部の住民(非日系)が暴れ出し、日本人を見境なく襲い始めた。商店や家を叩き壊し、人を殴り、蹴り、袋叩きにした。馬で追い掛け回した。
 暴徒の数はドンドン膨れ上がり、それが幾つもの群れとなって走り始めた。一陣が去ると、また一陣が来る。
 市長や警察署長が、鎮静化させようと必死に呼びかけた。その声がかすれるほどになった。が、効果なかった。暴徒は数千人に膨れ上がった。
 ツッパン(40数キロ東方)から軍隊一個小隊が出動し、マリリア(約100キロ東方)の州警兵の司令官が、飛行機で飛んできて上空を旋回した。
 暴徒の略奪が始まった。日本人の住宅は荒らしつくされた。
 バウルー(200キロ以上東方)からも軍隊が到着した。
 8月1日、暴動はなお続き、ツッパンから一個小隊が増援された。
 8月2日、暴動は収まったが、それは警察や軍隊の力ではなく、町から日本人が姿を消したためであった。
 重軽傷者50数人、死亡1人。(つづく)