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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(73)  

 

ニッケイ新聞 2013年8月24日

 

 8月20日。
 ソロカバナ線アヴァレー在住の認識派の岡本良平が、3人の若い男に襲われた。が、機先を制して反撃したため、無事であった。3人は、その後逮捕された。

 戦勝派もヤラレる

 9月は、事件はひと休みとなった。
 10月1日、ノロエステ線ペナポリスで、戦勝派の過激分子、島野並路が射殺された。
 認識派ではなく戦勝派が殺されたのである。殺したのは警官隊であるが、側に認識派が居たという。
 島野は、彼らに急襲された時、仲間と一緒だった。仲間は逃げたが、島野は一人、武器を持たず残っていた。 しかし撃ち殺され、しかも遺体が惨たらしい破損のされ方であった。これが、戦勝派を憤慨させた。「警官がやったということになっているが、実は認識派も居って、手を下した」という説が流れ、60年余もの間、語り継がれて来ている。
 事実とすれば、認識派も武器を手に実際に戦った具体的事例ということになる。
 連続殺傷事件の実態を知る上で、極めて重要な場面である。
 この事件に、前出のブラウーナの稗田長之が参加しており、貴重な証言を聞くことが出来た。
 (詳細は拙著『百年の水流』に掲載したので、ここでは簡単に記すが)稗田の父の死後、ブラウーナには、警察の勧めで認識派の自警団がつくられ、長之も、その団員になった。ある日、警察から協力を求められ、戦勝派の過激分子の逮捕に出動した。
 警官と自警団で12、3人、カミニョネッテ(小型貨物自動車)に乗って行った。翌日、隣のペナポリス郡サン・マルチーニョのカフェー園にある家に、潜伏中の彼らを包囲した。
 長之は家の裏側に回った。中に居た一人が飛び出してきて逃走した。追いかけながら、撃った。向こうも撃ってきた。その相手は鉄矢運良(かずよし)という男だった。鉄矢は、転びながら逃走した。弾が当たったのかどうかは判らなかった。長之は、被弾しなかった。
 家の表の方でも銃撃戦があったが、敵は殆ど逃げてしまった。ただ、遺骸が一つ残っていた。それが島野並路だった。
 指揮をしていた警官が、カフェー樹の陰に一人居るのを見つけて、カビラーナ(カービン銃)で射殺したという話だった。
 遺体をカミニョネッテに乗せて引き返した。弾痕を数えると、20カ所あった。
 長之は、島野が撃たれた現場は見ていなかった。が、
「そういう(指揮官が一人で撃った)ことになっている」
 と言う。
 なお、長之によると、彼ら過激分子の上に松家(マツカ)……なんとかいうのが居たそうだが、これは表に出てこなかったという。先に記したが、8月の事件でも、松家元?という名が登場する。
 ノロエステ線ビリグイ方面での事件は7、8月に集中して起きており、一部を除いて襲撃者の間に繋がりがあったかもしれない。背後で松家が糸を引いていたという推定もできよう。
 その松家を知っている人が居た。前出の鳴海忠雄である。
「ワシは、松家を知っている。元……なんとかという名だった。剣道を教えていた。ワシも教えて貰ったことがある。40代で、頭の切れる人だった。あの地方の戦勝派の頂点に立っていた。逮捕されたかもしれないが、受刑したという話は聞いていない」
 また、長之の証言の中に出てくるカフー園の家というのは、鉄矢運良の弟ジロウの所有であった。
 そのジロウは、前出の事件表にある様に、11月、警官と認識派自警団により殺された、とする資料もある。事実とすれば、認識派自警団による戦勝派の射殺が、もう1件あったことになる。が、確かなことは判らない。

 地方に於ける事件は、これで終わったが、まことに種々雑多で捕え所がない。
 筆者は、最初「戦勝派の過激分子が、地域地域の認識派の中心人物に天誅を加える式の襲撃をした」と想像していたが、そういうケースは少ない。
 ために、全体像をスッキリした形で把握しようとしても(不明点が多いことにもよるが)イメージが、頭の中で纏らない。
 ともかく、できるだけ整理して、少しでも実像に近づこうというのが、本稿の以下の数項目の狙いである。(つづく)