ニッケイ新聞 2013年8月27日
「ブラジル史上最高のゴールキーパー」と称され、1958、62年のワールドカップでのブラジル優勝にも貢献したジウマールが25日死去した。83歳だった。25日付伯字紙が報じている。
1930年にサンパウロ州サントスで生まれたジウマールは、45年にジャバクアラでサッカー人生をはじめ、51年にコリンチャンスと契約。54年までに3度のサンパウロ州選手権優勝に貢献する。
ブラジル代表(セレソン)には56年から召集されはじめ、1958年のスウェーデン大会で自身初のW杯出場を果たし、〃正守護神〃として活躍。ペレやガリンシャを擁する攻撃的チームの守備の中心となった。
ジウマールは相手のクロスを読むタイミングと守備位置の判断の的確さに定評があり、58年大会に共に出場したペペは、「相手がシュートを撃とうとした時も、すぐ近くにジウマールがいるとわかると撃つのをやめたほどだった」と振り返っている。
62年には郷里のサントスに移籍、ペレのチームメイトとしてリベルタドーレス杯で2度、タッサ・ド・ブラジル(全国選手権の前身)で5度、サンパウロ州選手権で5度優勝。62年W杯のチリ大会でも正守護神をつとめ、2連覇達成に貢献した。
66年のW杯イングランド大会にも出場し、70年メキシコ大会も出場を有力視されていたが、「もう若い後続に譲るよ」と69年に余力を残して現役を引退した。飾らない性格で知られ、周囲からの賞賛に対しても「僕は他のキーパーと変わらない。運と時代が少し良かっただけだよ」と語っていた。
2000年に脳血管障害が起き右半身不随と言語障害を患っていたが、今月8日は心筋梗塞で倒れ、サンパウロ市シリオ・リバネス病院に入院していた。
ブラジル・サッカー連盟のジョゼ・マリン会長は「偉大なキーパーとしてでなく人間としても優れていた」とジウマールを賞賛し、9月7日のセレソンのオーストラリアとの親善試合を追悼試合にすることを発表した。