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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇戦前編◇ (33)=青柳は日本政府の手先か=移民の側から見た人物像

ニッケイ新聞 2013年8月27日

三浦鑿(『物故者列伝』71頁)

三浦鑿(『物故者列伝』71頁)

 明治のお歴々を後ろにした青柳は、当時の移民の側からすると、どんな存在だったのか。また「日本人植民地」を前面に出して事業を進める海興のやり方に対して、内乱に過敏な中央政府の雰囲気を感じ取っていた当時のインテリ移民はどう見ていたのか。
 神戸大学附属図書館サイトによれば、サンパウロ市在住の「海谷野人」なる人物が大阪朝日新聞に1917年7月31日から21回に渡っての投稿「巴西へ」を連載した。
 水野龍らを拝金主義の〃移民屋〃と呼び、領事館筋を舌鋒鋭く批判する文面から、三浦鑿(高知)の筆名ではないかと推測される。三浦は1919年に、ミナス州の米作者が作った日伯産業組合の石橋恒四郎理事長から資金を融通してもらい「日伯新聞」を買い、在外公館や移民会社を舌鋒鋭く批判した。買収前の〃ブラジル浪人時代〃に投稿したようだ。。
 連載第7回に、ブラジルでの排日傾向の高まりを注意喚起する一文がある。北米では排日気運が盛んになってきているのに、伯剌西爾拓殖会社は《その発起人に日本の有力なる政治家、実業家の総ての名前を挙げて、設立された》もので〃官臭〃漂うとし、首府リオの反日主義者はこれ幸いと《貧弱なる議論を粉飾する材料となす》流れとなっているとくさす。
 いわく《その虚栄心を満足せしめたりしならんも、拓殖会社は何の顧慮する所なく、寧ろ得々として、反日本主義者の論拠に奥書するが如く、リベーラ沿岸の森林地帯に命名して『桂植民地』となし、親分桂公の満足を買わんとしたるは、御都合あることならんが、悲しいかな。かくて愈ブラジル拓殖会社は、政治的色彩を濃厚ならしむるに至れり》と批判した。
 同拓殖会社に国際関係の機微を理解するものがいれば、「桂植民地」ではなく当地の農商務長官の名前とかをつけて、現地に敬意を表する時期であろうと論じている。
 三浦は「イグアッペ植民地は土地選定を間違えた」と断定し、サンパウロ州政府との契約にかかった費用5万円があれば、有望なる私有地2万アルケールを取得できたはずで、《州政府をして云わしむれば、開発に最も困難なる土地を、日本人に委したるもの》で、州政府は日本人に《一杯食わしたり》と批判する。
 さらに《平野運平氏が西北鉄道線ペンナポリス駅に、二千アルケリスの土地を買収して、殖民者を募集するや、百万円の資本金もなく桂公もなければ、渋沢男もなく、州政府の補助もなく、反って日本移民会社側の川田氏、或は青柳氏等の日本領事館に対する妨害運動ありたる程なりしにも拘らず、裸一貫の身を以て、尚よく三百家族の殖民者を集め得たるに見ば、想い半に過ぐるものあらん。実に平野氏の事業は旧勢力者のために、万丈の気を吐くものと云うべし》。まさに三浦節の炸裂だ。
 海興幹部職員の野村隆輔は『思い出の記』の中で、海興から見た三浦鑿は要注意人物で《毒虫》(9頁)という位置付けだったとある。移民を送り出す側と、移民の代弁者を辞任する邦字紙側の溝は、かくも深かったことが分かる。
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 終戦直後に出された『四十年史』でも、香山六郎は青柳を〃官側の胡散臭い人物〃と見て、こう記述している。笠戸丸移民で、『サンパウロ州新報』を創刊し、移民の側に立った論陣を張った人物だ。
 1909(明治42)年、《サンパウロ州には青柳郁太郎が頬被りして現れていた。彼が如何なる目的で来聖したか、藤崎商会の後藤武夫へも、上塚皇国殖民会社の代理人にも漏らさなかった。従って一般移民間に協調援助も求めず、高踏的態度ではなく、コソコソと仕事を進捗させていた。官僚式の男、青柳の出現は、在サンパウロ市邦人に一種の不快な印象を与えていた》(82頁)。最初、青柳はまるで極秘任務を遂行するかの如き様相で、ブラジルに来ていたようだ。
 香山はこう続ける。《青柳のこの頬冠主義を、微かながら突き止めたのは、当時移民収容所の書記に雇われていた移民の草分け鈴木貞次郎であった。青柳は殖民局に現れて土地を探しているとさぐり出した。その後青柳は鈴木に斯う漏らした。「僕の仕事は日本に確かな筋の—それも尊い歴々のお方々の御支援があるんで君」》(同82頁)。香山からすれば、青柳は「日本政府」の手先のように見られていた。(つづく、深沢正雪記者)