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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2013年8月28日

 レジストロ連載にあるように、珈琲農園で奴隷扱いされた自国民を保護するために、イタリア政府は1902年にブラジル向け契約移民渡航を禁じた。これがなければ日本移民は始まらなかった。始まったとはいえ、サンパウロ州政府は約1万5千人でその導入を中断した。一次大戦で欧州移民が枯渇したので、農園主が仕方なく1916年に日本移民を復活させた▼大戦時の様子を『二十五周年記念鑑』(サンパウロ州新報、1934年)はこう描写する。《在伯独逸青年は悲愴な面持ちで帰国する。仏人も、伊太利人も、西班牙人も……。若者は祖国へ、祖国へ——。斯うして、移民輸入ブラジルが移民輸出ブラジルと化してしまった。此の状態が永続すれば…珈琲耕地はブラジル人だけでは…ペンペン草の(中略)畑と化し、の杞憂が生じた》(64頁)。かくも初期の日本人移住はハラハラ、ドキドキを繰り返す中でかろうじて命脈を保ってきた▼そんなイタリア移民は珈琲農園を出て、サンパウロ市の工場労働者になり、祖国で盛んだった組合運動を当地に持ち込んだ。その代表格が伊語新聞『Avante!』で、1902年から08年まで日刊発行された唯一の工場労働者向け新聞だった。祖国で1892年に伊社会党を創立したアントニオ・ピカロロは1904年に同党サンパウロ市支部に招かれ、同紙の指揮をしたほど本格的だった▼当時の日本移民史に組合運動の描写はほぼないが、山崎千津薫監督の映画『GAIJIN』の最後に少し出てくる。主人公チトエが農園を夜逃げして出聖し、南欧系工場労働者がストを呼びかける中、彼女は働き続けるという場面だ。日本移民はブラジルを通して世界史の一部になった。(深)