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日本移植民の原点探る=レジストロ地方入植百周年 ◇前史編◇ (8)=大浦兼武の後ろに桂太郎=小村外相の大反対で頓挫

ニッケイ新聞 2013年7月3日

桂太郎総理大臣

桂太郎総理大臣

 その大浦兼武を重用したのが桂太郎(陸軍大将、1848—1913)だ。もちろん「桂植民地」は彼の貢献への顕彰として死後に命名された。
 大浦との共通点はともに軍人で、国防重視志向の強い人物であることだ。桂は現在の山口県萩市に生まれた長州藩士で、毛利家の重臣の出身だ。1870(明治3)年8月ドイツへ私費留学し、桂の叔父と親しかった木戸考允にお願いして途中で官費留学に切り替え、木戸は陸軍卿の山県有朋に依頼して桂を大尉に任命するなどの世話をした。
 1875年にはドイツ公使館付武官となって再び渡り、ドイツ軍制の調査に従事し、1878年に帰国していから、「国軍の父」山県有朋の下で陸軍改革を行い、それまでの仏式からドイツ式に統一したのは桂の強い影響があったと言われる。
 青柳名で出した提案書がドイツの移民政策を参考にしているのは、このような桂の志向を意識した部分があったようだ。
 桂太郎は台湾の開拓に役に立つ人物の育成をする教育機関として、1900年9月に台湾協会学校(拓殖大学の前身)を創立した。桂太郎はこの当時から拓殖事業に強い関心を持っており、建学の精神として《積極進取の気概とあらゆる民族から敬愛されるに値する教養と品格を具えた有為な人材の育成》を唱えた。
 当時の同学校学監(現在の学長)だったキリスト者で有名な新渡戸稲造の影響もあって、「人種の色と地の境我が立つ前に差別なし」と、聖書の「マタイによる福音書」を引用した「地の塩となれ」を教育の柱とした。「地」とは「世の中」、「塩」は「腐敗を防ぐ、模範となるもの」という意味のようだ。
 その少し前、榎本武揚が外務省に移民課を作ったのと同年、1891(明治24)年に東京へ私立育英黌を設立したのは、やはり拓殖に関わる移民の人材育成を見すえたからに違いない。その農科が存続して後の東京農業大学に発展し、多くの卒業生をブラジルに送り出した。
 のちに上塚司がアマゾン開拓の人材育成に高等拓殖学校を、崎山比佐江が海外植民学校(1918年創立)を東京に設立した流れの源泉は、このへんにあったようだ。
 山縣閥の意向を受けて桂太郎は昇進し、大物が少ない「第二流内閣」と揶揄されながらも日露戦争に勝利した。これで明治天皇から強い信頼をえて、伊藤博文の後継者として立憲政友会の第2代総裁に就いた西園寺公望(さいおんじ・きんもち)と交互に組閣する「桂園時代」(1901〜1913年)を現出する。いわば二大勢力による内閣輪番制ともいえるもので、政治的に安定した時代だ。その一翼を担った桂が、強力に後押ししたのがブラジル移植民だった訳だ。
 「意見書」他の主要メンバー「床次竹二郎」(1867—1935)も、薩摩藩士の長男に生まれ、徳島県知事、秋田県知事などを歴任した後、1906年の第一次桂内閣で内務省地方局長に任命された人物だ。ただし大浦などに比べると当時の影響力は小さそうだ。1914年に衆議院選挙で当選して以来、1932年まで連続8期当選し、その間、内務大臣、鉄道大臣、通信大臣を歴任するなどその後に名をなした人物だ。
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 しかし、青柳名の意見書は、小村壽太郎外相から大反対を受けた。小村は、ロシアと対立するイギリスと提携して、朝鮮半島を保守し中国大陸へと積極的に進出すべきだという『日英同盟路線』を推進した人物だ。
 日清戦争に勝利して台湾の占領統治を進めた日本だが、フランス、ドイツ、ロシアによる「三国干渉」によって遼東半島を放棄することになり、この屈辱的な結果により、日本の朝鮮半島の権益を犯す恐れがある「ロシアの南下政策」を抑えることが、日本の最重要課題と思われていた。
 ウィキ「小村壽太郎」には、《1911年(明治44年)に日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復を果たした。日露協約の締結や韓国併合にも関わり、一貫して日本の大陸政策を進めた。韓国併合の功により侯爵に陞爵》とある。いわゆる「満韓政策」に集中すべしとの考えの持ち主で、ブラジル植民事業に結果的に大きな変更をもたらした。(つづく、深沢正雪記者)