ニッケイ新聞 2013年7月3日
この〃勝ち負け〃騒動、その実態に関しては、基本的に異なる二種類の説があって、今日に伝わっている。一つは、負け組のそれ、もう一つは勝ち組のそれである。
終戦後しばらくは、勝ち組の方が数が圧倒的に多く、その説が世論を形成していた。が、勝ち組は治安当局の大検挙で壊滅的打撃を受け、さらに日本の敗戦が次第に明らかになるにつれ、負け組への転向者が相次いだ。
これに伴い、負け組特に認識派が世論の形成者になった。
認識派とは、敗戦の認識度が特に明確だった人々のことで、その中から勝ち組に対する敗戦認識の啓蒙運動をする有志も出た。認識運動と呼ばれた。(ただし、認識派・認識運動という言葉が使われ始めるのは、1946年の初め頃からである)
以後、認識派が、邦人社会(コロニア)の動きも主導するようになった。
騒動が時に振り返られることがあっても、負け組の説のみが取り上げられ、それが正論となった。かつて勝ち組だった人々が、それに対し「そこは違う、真相はこうなンだ」と異議を唱えようとしても、それは黙殺された。
ところが、実は、この勝ち負け騒動には、不審な点が幾つもある。
まず前回記した通説であるが、それを裏付ける確かな資料は存在しないのである。特に連続して起きた襲撃事件が、そうである。例えば殺傷件数からして、既述した様に一定しない。総検挙数も2千数百人、5千人以上、8千人と幾つもの記録がある。
臣道連盟の特攻隊によるテロ説に関しても、長くそう語り継がれてきた──だけに過ぎない。確かな裏づけは存在しない。
しかし「それが事実であり、皆、そう思っている。もう決ったことだ」と、押し付ける馬鹿げた声が一部にある。
騒動終息の約10年後、日本からサンパウロに転住してきた筆者も、それを鵜呑みにしていた。以後長く、そうであった。が、20世紀が21世紀と代わる頃から、実際に襲撃に参加したり関与した人々と知り合い、何度もジックリ話を聞いたり、資料を発掘したりしている内に(自分が鵜呑みにしていた通説や認識派の説は……事実とは違うのではないか?)と、疑問を抱き始めた。
そこで、洗い直しを始め、十年余、それを続けた。その間、疑いは強まる一方であった。結局「自分は、間違っていた」と悟った。
そうした過程で、意外なことに気づいた。騒動の実態は「そもそも、シッカリした調査が一度もされたことがなく、殆どが未解明のままになっている」という事実である。
〃被告〃の言い分を聞かず=〃有罪判決〃を下す
シッカリした調査が一度もされたことがないのに、この騒動に関しては、無数の記事やレポートが書かれている。
しかも、それらの作品は、裁判の結果ではなく、警察の調書、二、三流のポルトガル語の新聞の記事、伝聞、憶測に頼って、内容を構成している。
当時の警察の質は低劣であったし、二、三流のポ語新聞の記事は間違いが多かった。その調書や記事を、そのまま引用することは、極めて危険である。それと、伝聞や憶測というものは、その多くが事実を変形させているから、使用する場合は、注意が必要である。
さらに、それら作品の内容が認識派の説に偏り過ぎている。勝ち組の説を取り上げていない。バランスがとれていないのである。何よりも襲撃の実行者の話を聴取していない。しようともしていない。これでは、裁判官が、原告の訴えにだけ耳を傾けて、被告の言い分を聞かず、判決を下しているようなものである。(つづく)