ニッケイ新聞 2013年7月4日
極めつきは、警察の調書だけに頼って記事やレポートを書き、起訴されてもいない人を多数、テロリスト、犯罪者と決めつけている作品が幾つもあることだ。こんな理不尽な行為は、それこそ犯罪である。
しかるに、これらの作品は、日本語、ポルトガル語で多数、発表されている。書物にもなって出版されている。ブラジルだけでなく、日本でも。中には高名な評論家や作家、ジャーナリストの手になるものもある。大学教授や社会的な信用度が高い研究機関の研究者のそれもある。
ために、彼らの権威によって、作品の内容が、ブラジルの日系社会だけでなく、非日系社会そして日本でも、真実として一般に根づいてしまっている。
全く無茶苦茶な話である。
ともあれ、今、必要なことは、中立的な立場から、できるだけ一次資料に近いものを発掘し、総てを洗い直し、バランスのとれた歴史を、記録として残す作業である。
無論、騒動発生から(本稿執筆の2012年現在)60年以上、終息から50年以上が過ぎてしまっており、その発掘は至難ではあるが……。
さらに、別の障害もある。一次資料といえば、最初に思いつくのが、当事者や関係者の証言、裁判所の記録であろう。が、当事者も関係者も殆どが鬼籍に入っている。
裁判記録は──被告が一世でポルトガル語を駆使できず公証翻訳人も僅かしか居なかった状況下──正確であったかどうか、甚だ疑問である。しかも、その裁判記録の入手も、お役所仕事の壁に阻まれ、難渋を極める。
しかし、一歩でも前進「真相の解明は、実は、ここまでしか進んでいません。ここから先は不明です」と明記しておくことは可能である。それを基礎に、さらに洗い直しを進めてくれる後続者の出現を祈って──。
本稿も、そういう前提で作成している。
認識派史観
長く正論となってきた認識派の説は、最近〃認識派史観〃と呼ばれる様になっている。史観というほど系統立って深みのある内容ではないが、便宜上、そう名づけられている。筆者も同じ理由で、それに倣う。
その認識派史観は、整理された形で文字にされているわけでもない。断片的に書かれたり、人の話の中に出てくるに過ぎない。それを、筆者が箇条書きしたのが、以下の項目である。
Ⅰ、終戦直後、日本は勝ったというデマが邦人社会に流れた。それを狂信する者が大量に出た。
Ⅱ、デマの中に「日本の軍艦が、同胞の移民を祖国に迎える使節を乗せて、サントスに入港する」というニュースがあり、歓喜した人々が大勢、出聖、異様な雰囲気を発散させながら街路を往来した。これを非日系の市民が不気味に感じ、警察に苦情を多く寄せた。警察は、日本人自身による収拾を要求した。同時期、戦勝説を流し、種々の詐欺を働く手合いが出始めた。
Ⅲ、これを憂慮する敗戦を認める有志が、狂信者の啓蒙のため立ち上がった。しかし狂信者たちは、頑冥にも耳をかさず、粗暴な敵対的言動で応じた。
Ⅳ、狂信者の団体が多くできた。最大組織が臣道連盟である。臣連は戦時中、養蚕・薄荷農家の襲撃というテロを指揮・扇動した秘密結社、興道社の後身である。臣連は狂信者の牙城となった。
Ⅴ、狂信者たちは、敗戦派を、殺意を明記した手紙、落書き、貼り紙などで脅迫した。
Ⅵ、狂信者たちは、敗戦認識の啓蒙運動に献身する人々の口を封じるため、襲撃・殺傷する──というテロを次々と実行した。
Ⅶ、そのテロを計画・指揮したのは臣道連盟で、内部に特攻隊を組織して、やらせた。臣連は秘密結社で、テロ団である。(以上)
この認識派史観に接していると、戦勝派は狂人、悪人であり、認識派は賢者で正義の人……というイメージが浮上してくる。(つづく)