ニッケイ新聞 2013年7月5日
戦勝派史観
一方、勝ち組の説も、便宜上、ここでは仮に戦勝派史観と名づける。が、やはり整理された形で存在するわけではない。以下は、勝ち組が買いた文章や彼らから聞いた話から、筆者が拾ったものである。
戦勝派史観は、既存の通説や認識派史観の大半を否定する。
まず、通説の中に出てくる「勝ち組」「負け組」という言葉であるが。——この両語は、日常的によく使われる。しかし、筆者が会った、かつての襲撃事件の関係者は、皆、これを喜ばなかった。こう言うのである。
「当時、勝ち組とか負け組という言葉はなかった。これは、ずっと後になって、日本からの訪問者がつけた名だ。我々は、日本が戦争に負けたとは思わなかったが、襲撃の動機は、戦争の勝敗問題ではなかった」
だから、勝ち組・負け組という表現は誤解を生む、迷惑だ、というのである。
これは、意外な証言であった。ちなみに筆者は、当時の資料に目を通してみたが、確かに勝ち組、負け組という表現は見当たらなかった。戦勝派(組)、敗戦派(組)ならあった。(戦勝派には、ほかに信念派、強硬派、硬派という呼称もあった)
次に、認識派史観がよく使う「狂信」とか「狂信者」という言葉であるが、戦勝派史観は「我々は、狂ったのではない」と否定、こう主張する。
「日本が勝ったと思って、それが、どうしていけないのか。日本から正式の公報が来ない段階で、敗戦報と戦勝報が流れた。我々は子供の頃から、日本は戦えば必ず勝つと教えられてきた。戦勝報の方を信じるのは自然ではないか。勝ったと思って、何故いけないのか。そう思いたい者には、思わせておけばよいではないか」
認識派史観Ⅱについては、反論らしいモノは見つからない。
認識派史観Ⅲについては、戦勝派側は古くから強く批判している。「敗戦を認める有志が、狂信者の啓蒙のため立ち上がった」という部分である。「それが、マズかった。そういう余計な、お節介をするから、それが反感を買い、両派の対立が生まれ、過激化し、遂には血を見てしまったのだ。つまり、啓蒙運動とやらは、逆効果を招いて大失敗したのだ」と。
同Ⅳの内の「戦時中、養蚕・薄荷農家の襲撃というテロを指揮・扇動した秘密結社、興道社」という部分は、先に一寸記したが、同社関係者が否定している。
同Ⅴの「狂信者たちは、敗戦派を、殺意を明記した手紙、貼り紙、落書きなどで脅迫した」は、(狂信者という部分はともかく)多数の資料があり、事実である。それを否定する戦勝派側の資料は見付からない。
以下は最も重要な部分であるが──。
同Ⅵの「狂信者たちは、敗戦認識の啓蒙運動に献身する人々の口を封ずるため、襲撃・殺傷する──というテロを次々と実行した」は、襲撃実行者たちが否定している。
動機は全く別の所にあった、というのだ。(動機については後述)
同Ⅶの「そのテロを計画・指揮したのは臣道連盟で、特攻隊を組織して、やらせた。臣連は秘密結社で、テロ団である」については、襲撃者・臣連関係者のいずれも否定している。(つづく)