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連載小説=移り住みし者たち=麻野 涼=第111回

ニッケイ新聞 2013年7月6日

「明日から朝食は私たちと一緒にこっちの部屋で摂ればいい。用意ができたらドアをノックするから出てきて食べるように。昼食はこの容器に入れて用意してあげるから、それを会社に持って行きなさい。夜はあなたの部屋に用意しておくから、夜間中学から帰ってきたら食べるように」
 叫子が明日からの生活について説明した。
 パウロはビニール袋から大切な宝物でも出すように小さな十字架を取り出して、机の上に置き、その前にひざまずき言った。
「ノン・アクレジット(信じられない)」
「食事をすませ、シャワーを浴びたら早く寝ろよ」小宮が言った。
「シェッフェ、夢のようだ。今晩は眠れないかもしれない」パウロは大きな目から涙を流しながら言った。

 翌朝、叫子が朝食の用意をすませパウロを呼びにいくと、パウロは眠そうな顔をしてテーブルに着いた。小宮はすでにパンを頬張り、一人で朝食を摂っていた。
「カフェとレイチ(ミルク)はテーブルの上にあるから自分で適当に入れてね。パンは好きなだけどうぞ」
 叫子はこういうと自分もテーブルについて朝食を食べ始めた。パウロも最初のうちは遠慮していたが、家族同様に扱ってくれていると思ったのか、自分でポットからコーヒーとレイチを半々に継ぎ、砂糖をたっぷり入れたカフェコンレイチを作った。テーブルの上に置かれたフランスパンをナイフで切り取り、バターを塗って食べ始めた。
 朝食がすむと、小宮は出勤の準備を始めた。会社に行けば作業用のツナギに着替えるが、出社する時はスーツとネクタイ姿だ。叫子は寝室に置かれた洋服ダンスからスーツを出してきた。それをソファに置くと、今度はキッチンに入った。
 アルミの弁当箱を持ってくると、「アルモッソ(昼食)よ」と言ってパウロに渡した。
「五分後に出るぞ」と小宮が言うと、パウロは自分の部屋に戻った。
 着替えをして部屋を出ると、エレベーター前でパウロが待っていた。地下の駐車場に降りて、二人は車に乗り込んだ。
「夢のようだ」
 パウロは昨夜の夜、何度も繰り返した言葉を、車に乗ってからも呟いた。
「何が夢のようなんだ?」小宮がハンドルを握りながら尋ねた。
「あんないいアパートで、しかも自分一人の部屋を借りられて、こうして自動車で通勤していることさ」
「まだ始まったばかりだ。自分のアパートを持ち、自分の車を持つまで頑張れよ。そのためにも中学卒業の資格を一日も早く取ることだ」
「わかっている」
 前方の一点を見すえたまま語るパウロは、昨日までとは別人のように小宮には感じられた。
「竹沢所長は俺のことはどう思っているのだろうか」
 小宮は隠しておいても仕方ないと思い、すべてを話すことにした。
「パウロがこのまま働き続けることには反対したが、私が責任を持って中学を卒業させ、優秀なメカニコに育てるからといって納得してもらった」
「ありがとう。必ず小宮とセニョーラの期待に応えてみせる」
 パウロの言葉からは並々ならぬ決意が伝わってくる。
 ディーラーに着くと、パウロは修理工場に入り作業服に着替えた。それまでのパウロが仕事をさぼっていたわけではないが、気迫が違うのかいち早く同僚がその変貌ぶりに気がついた。
 朝から冗談を言って皆を笑わせていたパウロが冗談も無駄口もきかなくなってしまった。竹沢所長の朝礼が終わると、パウロは真っ先に修理工場に走り、自分が任されたオートバイの整備を始めた。(つづく)


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