ニッケイ新聞 2013年7月16日
時事通信から配信されたニュースで一面記事を作成していた。午前中に翌日の新聞のトップ記事と右肩にどの記事を掲載するかなどを決め、その原稿を印刷工場に回し、記事のタイトルを四階の写植部に回しておけば、昼休みから夕方四時、五時までは何もすることがなかった。
編集室は窓際から翻訳・スポーツ欄の小笠デスク、中田編集長、前山主幹、神林社会部デスクが座っていた。彼らが背にする書架には半年ごとにファイルされたパウリスタ新聞のバックナンバーが納められていた。児玉は空いた時間を利用してパウリスタ新聞の創刊号から読み始めた。
二階の印刷工場から「一面できたよ。降りてきて」と工場長の藤沢から電話が入るまで、編集部で古い新聞を読み続けた。藤沢から連絡が入ると印刷工場に降りた。
「ボアッチ通いは止めたんだって」
藤沢が児玉に聞いた。藤沢は移住してくる前は毎日新聞の印刷局で働いていたという経歴の持ち主だ。日本が高度成長期を迎える頃の新聞記者の破天荒な生活をよく知っている。
「いや、金がなくなっただけです」児玉は笑いながら答えた。
「女遊びを卒業してやっとやる気になったみたいだと、編集長が言っていたよ」
中田編集長、前山主幹、神林デスクはバックナンバーを真剣に読んでいる児玉を、まるで鳩が豆鉄砲でも食らったかのような顔で見ていた。
パウリスタ新聞は一九四七年一月一日に創刊された。勝ち組、負け組の対立が激化している頃で、当時の記者は命がけで日本の敗戦を伝えていた。その緊迫した雰囲気が紙面から伝わってくる。日本に帰国してからの支局運営のためにもブラジル日系社会の歴史を知る必要があった。
しかし、児玉にはもう一つ理由があった。紙面の中から日本の雑誌に掲載されそうなテーマを見つけることだった。興味のある記事はコピーをしたいと思ったが、社内にはコピー機が一台もなかった。
早稲田大学の図書館にはコピー機が置かれ一枚十円でコピーが可能だったが、新聞社だというのにそのコピー機がなかった。市内にはコピー専門店があり、日本より高い値段でコピーを引き受けていた。バックナンバーファイルをコピー店に持ち込むこともできないし、そんな経済的余裕は児玉にはなかった。結局、ノートに記事を書き写すしかなかった。
それを見て編集長たちは児玉がやる気になったと判断したのだろう。しかし、児玉は生活費のことで頭がいっぱいだった。
勝ち組、負け組の抗争を日本で最初に報道したのは、藤井卓治という共同通信のローカルスタッフだった。戦前に発行されていたサンパウロ州新報の記者をしていた人物で、戦後はサンパウロ新聞の記者、日伯文化協会の事務局長を経験したが、その一方で支局をまだ開設していなかった共同通信の通信員として日本に記事を送信していた。ブラジルと日本との往来が可能になると、月刊誌「改造」に当時の日系社会の混乱をレポートした。
そのレポートは日本にいる時に読んでいたが、パウリスタ新聞にはそのレポートの基となった事実が詳細に記されていた。そんな記事の中で、児玉の目を引いたのは、戦前の日本で教育を受けていた二世の存在だった。戦争が始まり、彼らは日本に取り残されたが、戦後、二世が日本から帰国してきた。
パウリスタ新聞は二世の帰国を次のように報じていた。
「許可が下りたぞ! ブラジル帰りの一番乗り! 歓喜にひたる中平兄弟、戦争犠牲者千崎夫人も
[東京支社]戦前以来日本にある日系ブラジル人(二世)の本国帰還問題は諸種の国際事情のため終戦後二カ年半の現在まで解決のはこびにいたらなかったが、サンパウロ州マリリア生れの中平安(一八)、武(一六)兄弟が正月初旬空路ブラジルへ帰還することに決定したのでこの問題は愈々完全解決の段階に入ることになり、いきおい終戦後の日ブラジル人事交流問題の全面的解決にも曙光を与えることになった。(つづく)
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