ニッケイ新聞 2013年7月20日
十八家族五十四名は、リオデ・ャネイロで下船、イーリャ・ダス・フローレス移民収容所に一先ず入所した後、アマゾンに向かった。四人の孤児はそのままサントス港に向かい、彼らがブラジルの土を踏んだのは、それから二日後の十三日のことだった。「明るく瞳輝いて、孤児四名元気で着く」という見出しで、二月十四日のパウリスタ新聞は、彼らの到着を報じている。第一回目の移民船によって戦災孤児が運ばれてきたことは、戦後の日本の状況を象徴するものだった。
さらに児玉はパウリスタ新聞をめくった。戦後移住でもう一つ目を引いたのは、エリザベスサンダースホームから移住してきた移民がいることだった。彼らもアマゾン河口にあるトメアス移住地に入っていた。しかし、農場経営は思うように進まず、一部はトメアス移住地に残ったものの、ほとんどの者がリオデジャネイロやサンパウロに出て生活していると報じられ、その中にはたった一人女性、東駅叫子もサンパウロで暮らしていることがニュースになっていた。
午後になるとバックナンバーを読んでいる児玉に、小笠デスクが聞いた。
「最近、飲み歩くのは止めたらしいな」
小笠は週に一度は東洋人街のバーを飲み歩いていた。東洋人街の飲み屋については小笠は詳しかった。
「日系人の歴史を勉強するにはバックナンバーを読むのが手っ取り早いと思いまして……」
原稿料を稼ぐためのネタを探していると答えるわけにもいかず、児玉は差し障りのない返答をした。
小笠が新聞を覗き込んだ。
「サンダースホームの連中はどうしているんでしょうね。女性も一人移住してきているんですね」
「叫子のことか」小笠は親しい知り合いのように言った。「最近、結婚したらしいぞ」
「知り合いなんですか」
「トパーズのホステスをこの間までやっていたんだ。人生を半分投げてしまったようなことを言っていたが、ホステス連中の話だといい男性をみつけて幸福に暮らしているらしい」
小笠が言った。
児玉は東駅叫子を取材してみようと思った。しかし、編集長やデスクには日本の雑誌で原稿料を稼いでいるのを知られれば、当然止めるように注意されるだろう。
「時々は飲みに行かないとストレスもたまるので、体調を悪くしない程度に飲むようにします」
児玉は小笠にこう答えて、再びバックナンバーに視線を走らせた。
サンダースホームからの移民が日本で激しい差別を受けていたことは十分想像できる。可能なら彼らの追跡取材をしてみたいと思った。肌の色がまちまちなこの国でどのように生きているのか。児玉はサンダースホーム移民の記事を書き写した。
こうしているうちにノートはパウリスタ新聞の写しで埋まっていた。
それから数日後、児玉はパウリスタ新聞近くのバールで食事をしてからトパーズに行った。コンデの坂の途中で交差するトーマス・デ・リマ街をミニョコンに向かって左折した突き当たりにある。すでに何度か飲みに入ったことのある店だった。
ドアボーイが覚えていて「お久しぶりです」と挨拶し、ドアを開けた。まっすぐ行ったところにカウンターがあり、通路の両側はボックス席になっている。すでに客が入っていた。児玉は東駅叫子の消息がわかればすぐに引き上げるつもりだった。
案内されたボックス席に座ると、ホステスが隣に座った。トパーズのホステスには一九六〇年代、移住が盛んに行われた頃、両親に連れられて子供の頃にやってきた一世の女性が多かった。当然、日本語は流暢に話せた。
ウィスキーを避けてビールを児玉は飲んだ。二人で一本開け、二本目を注文した時に、児玉が聞いた。
「叫子さん、結婚したんだって……」(つづく)
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