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第2次大戦と日本移民=勝ち負け騒動の真相探る=外山 脩=(49)

ニッケイ新聞 2013年7月23日

 ところで、その皇室の尊厳を侵し国家を冒?する暴言を吐いたハイセンとは誰なのか?
 敗戦認識の啓蒙運動の中心部に居った人々が口にしたという記録や言い伝えはない。また、そんなことは、まず無かったであろう。
 一般の敗戦派の中には、居たかもしれない。(筆者の記憶では、日本でも、終戦直後、そういう噂が流れた)
 前出の押岩嵩雄は、敗戦派の中に、そういう暴言を吐く者がいた、と憤慨する。
 やはり前出の白石静子の妹の悦子は、まだ12歳の少女であったが、敗戦派が天皇の写真を焼いたとか、皇后陛下が女郎をしているとか言っているという話を聞いたという。外出の折、いつも、その前を通るバールで、敗戦派が、日本が戦争に負けたことを喜んだり「天皇の写真はもう要らない」と喋ったりしている声を耳にしたこともあった。
 彼女の叔母(橋本多美代、既出)も、敗戦派がそういう暴言を吐いていた、と改めて怒りを満面に浮かべる。
 ほかにも同様の証言がある。
 しかし、これら暴言の実態ついては、不明である。
 一部の人間が口にしたことが、事が事だけに、噂になって、パッと広まり、それを、敗戦派の多くがそう暴言している──と戦勝派が錯覚したのかもしれない。
 とすれば、これも状況誤認である。
 ともかく、これが事態を最悪化してしまう。
 認識派史観Ⅴは、この部分が欠落している。戦勝派史観も、その暴言の実態を明確化していない。

 襲撃の動機は、勝敗問題ではなかった!

 脅迫と暴言で、両派間には殺気が流れ始めた。そして、遂に、連続襲撃事件の発生となる。
 で、認識派史観Ⅵの「狂信者たちは、敗戦認識の啓蒙運動に献身する人々の口を封じるため、襲撃・殺傷する──というテロを次々と実行した」であるが、これであると、襲撃の動機は戦争の勝敗問題であったということになる。
 実際、これは、事件発生時、その様に報道され、以来長く今日まで60年以上、通説となって生き続けてきている。事件について多少でも知識のある人は、殆どが、そう思い込んできた。筆者自身も、かつては、そうであった。
 これは、連続襲撃事件の核心部分の一つである。
 しかし、筆者の調査・取材中、生存していることが判り、会うことができた襲撃の実行者や関与者は総て「動機は戦争の勝敗問題ではなかった」と明言したのである。
 襲撃者の一人、日高徳一は「自分は、日本が負ける時は全日本人が死ぬ時と信じており、降伏報は敵の謀略と思った。が、襲撃の動機は、戦争の勝敗問題ではなかった。ほかの人々(同志)も、そうであった。我々は行動を起こすに当たって、勝敗問題を論じたことは一度もない、と断言できる」と言い切った。
 では、襲撃の真の動機は何であったのか?
 同志の一人山下博美は、これも先に記したことだが、敢えて繰り返すと「敗戦論者の皇室の尊厳を侵し、国家を冒?する言動に怒りを感じたから」「邦人社会の内紛を見て、こんなことをやっていると、日本人の恥になるゾ……とエライ人に反省を求める気持ちもあった」と言う。
 日高も、これに同意し「(敗戦派に)天皇が穢されたときは、我慢がならなかった」と付け加える。
 押岩嵩雄は、実は、襲撃の企画者であったが、これも勝敗問題説を否定した。
 彼は戦争の勝敗については「勝ったとも負けたとも判断はつかなかった。が、敗戦を信ずるということはなかった」という程度の意識であった。
 それよりも重大視したのは「皇室の尊厳を侵し、国家を冒?する暴言」「邦人社会の見苦しい内紛」であった。そして、その根本的原因は「軽率な敗戦認識の啓蒙運動にある」という結論を出し「運動を起こして、こういう事態を発生させながら、それを収拾できない、しようともしない邦人社会の指導者の誰かをヤッて、彼らの覚醒を求めようと……」決意したと言う。(つづく)