ニッケイ新聞 2013年7月24日
江戸時代の末期、笠戸丸のちょうど60年前の1848年10月12日、ブラジル帝国の若きドン・ペドロ二世は、イグアッペ米の生産で絶頂を迎えていたイグアッペの町の繁栄ぶりを顕彰し、「イグアッペ男爵」(Rua Barao de Iguape)という貴族称号をわざわざ作り、帝政に忠実に貢献するサンパウロ州の大地主アントニオ・ダ・シルヴァ・プラド(Antonio da Silva Prado、1778—1875)に与えた。
その称号は、奇しくもその一世紀後、第2次大戦を経て〃日本人街〃として知られるようになったサンパウロ市リベルダーデ区の目抜き通りガルボン・ブエノ街に交わる街路名「Rua Barao de Iguape」として残っている。このプラド家は親子二代に渡って日本移民と深い縁がある。
同名の息子(1840—1929)および、その3歳下の弟マルチーニョ・ダ・シルバ・プラド・ジュニオル(Martinho da Silva Prado Junior,1843—1906)の農場が笠戸丸移民を受け入れたからだ。
兄はサンパウロ市初の市長(1899—1911)に就任し、その間に笠戸丸移民をブラス区の収容所に受け入れ、任期の最後に今も残る市立劇場を作り上げた。兄弟でリベイロン・プレットに共同経営していたのが、笠戸丸移民を受け入れたサンマルチーニョ耕地とグァタパラー耕地だった。《この二つの耕地を合わせたコーヒー生産量は一時期、世界最大だった》(ウィキ「MPJ」項)とある。
サンマルチーニョ耕地には鈴木貞次郎が通訳をして27家族(101人)が入り、グァタパラー耕地には平野運平が通訳をする23家族(88人)が配耕された。
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水野龍は野に伏す〃民間の国士〃で、私財を投げ打って笠戸丸出航のためにあらゆる手段を講じた。土佐気質丸出しの、いわば一匹狼のように突出した行動力を備えた人物だった。
それに対し、青柳郁太郎は国家的な人材を背景とした〃体制側の国士〃であり、組織的に大事業を遂行していくタイプだったようだ。
水野が捨て身で切り開いたのが〃コロノ〃という獣道のように細い突破口だった。青柳はそこに活路を見出し、大規模な土木工事を敢行して、本格的な舗装道路〃植民地〃に仕立て上げた。この二人のどちらが欠けても今の日系社会の繁栄はない。
青柳の後ろ盾の代表的人物・大浦兼武は第2次大隈内閣の1915年頃まで政界の中枢で農政を牛耳る立場におり、限りなく国策に近い高い視点から伯剌西爾拓殖株式会社を作り、イグアッペ植民地事業を強く推進した。
「満韓政策」にこだわり、米国を刺激することを恐れた小村壽太郎外相が外交的見地から反対したために、ブラジル植民事業は正式な国策にこそならなかった。でも、時の桂首相、高橋是清日銀総裁、〃日本の資本主義の父〃渋谷栄一ら蒼々たる明治の政財界の要人が労力と私費を惜しまず推し進めた。いわば「準国策」体制で望んだのが、ブラジル移植民事業であった。
喩えてみれば、この植民事業は、本来なら正妻になるべく選ばれて、しかるべき素養を身に付け、主人から寵愛されていた女性が、結婚直前に孕んだ赤子のような存在ではなかったか。
〃嫡子〃(正妻の子供=正式な国策)として生まれる予定だったが、やむを得ぬお家の〃事情〃でその女性が正妻になることが許されず、結局的に、最愛の〃庶子〃(妾の子=準国策的な民間事業)として生まれることになった——ような悲劇的背景があった。
この嫡子路線=「満漢政策」と庶子路線=「ブラジル植民」の隙間は、時代を追って大きくなっていく——。
桂植民地ができるまでの経緯、つまりレジストロ地方入植の歴史には、明治の移植民史の原点が刻み込まれており、まさに日伯双方にとって重要な近代史の一部といえそうだ。(前史編終わり、深沢正雪記者)