ニッケイ新聞 2013年7月25日
連続襲撃事件発生の引き金となったのは、終戦の翌1946年の正月、ツッパンで起きた「日の丸陵辱事件」である。
元旦、郊外にあるクインという植民地で、一入植者が、日本風に、日の丸を掲揚した。それを、夜、しまい忘れていたところ、近くに住むカマラーダが盗んで、翌日、町の警察(州警兵)に持ち込んだ。戦争は終わっていたが、この時点では日本は未だ敵性国のままであった。
3日、エドムンドという下士官が率いる警官数名が植民地に来て、何軒かの家宅捜索を行った。その時、一入植者宅で家人に暴行を働き、日の丸を没収した。さらに6人を連行した。その際、車代だと言って600クルゼイロスを巻き上げた。(下士官の名は「エドムンド」ではなく「ライムンド」とする資料もある)
日の丸陵辱事件
同日、夕方、ツッパンの町にある警察の前で、同地在住の鮮魚商宇都宮忠也が、エドムンドが日の丸で泥靴を、これ見よがしに拭っているのを目撃、近くに居た戦勝派の邦人に知らせた。それを聞いた松本勇(42歳)ら9人の日本人が、詰問するつもりで警察に行った。が、警察には、エドムンドは居なかった。
一行の内の二人が、彼の居場所に心当たりがあったので、探しに出かけた。残る7人が路上に居ったところを、突如現れた多数の警官に包囲され、拘引、留置された。詰問組の一人坂根英一(38歳)が武器(小刀)を所持していたという理由による。
7人は5日、上部機関のマリリア署へ移送された。
以上は、その7人の一人の手記「ツパン日の丸陵辱事件の真相 一受刑者記」の一部の要旨である。
(手記は、サンパウロの文協移民史料館が保存。執筆者の名前は不記載。ツパンはツッパン、一受刑者は一被留置者のこと)
ところで、彼ら7人は、なぜマリリア署へ移送されたのか?
この手記によると、7人の留置を知った地元の一邦人が、知人の陸軍大尉(非日系)の協力を得て、救出に動いた。対して警察側は、ツッパンの住人で岡崎司三という人物を呼んで協力させ、7人が脱走を企てたという調書を作って、移送したという。
国旗というものが、未だ神聖視されていた時代であり、それでドロ靴を拭ったということが公(おおやけ)になれば、重大問題に発展することは必至であった。ために脱走事件をでっち上げ、問題をすり替えた──というのである。
さらにツッパンの戦勝派、中川三郎ら5人が、マリリア署へ送られてきた。経緯は不明であるが、これにも岡崎が関係していた。
マリリア署では、サンパウロのオールデン・ポリチカ(既述、州政府公共保安局の政治社会保安警察)から出張してきたルイという刑事と助手の末広パウロの取調べを受けた。が、調べは、臣道連盟との関係を追及しただけで終わった。日の丸事件のことは「事が余りにも重大であるので、自分では……」
と末広は、逃げた。
末広は、後に「オールデン・ポリチカの犬、岡っ引き」と戦勝派から毛嫌いされた男で、正規の刑事ではなく、その下働きをしていた。
結局、中川ら5人は14日、松本ら7人は28日に釈放された。
その釈放に関しては、ツッパンの岡崎司三、新田健次郎、石田喜三郎らが猛烈な反対運動を行った。
ところで、留置された松本や中川らは、殆どが臣道連盟ツッパン支部の加盟員であった。対して岡崎司三は、同地の敗戦認識の啓蒙運動の中心人物であった。新田と石田は、彼の同志であった。
つまり戦勝派と敗戦派の争いにもなっていた。
翌月、裁判があり、詰問組の坂根英一ほか一人が起訴され、坂根に対しては「当局の許可なしに武器を持ち歩いた」という罪で、3カ月の禁足と200クルゼイロスの罰金、もう一人は無罪の判決が下った。(つづく)