ニッケイ新聞 2013年6月7日
迫害(Ⅰ)
日本軍の戦況と共に、邦人たちが神経を尖らせていた関心事が、迫害であった。敵性国民となった自分たちに、この国の官憲や報道機関、民衆から、どの様な迫害があるか判らなかったからだ。
国交断絶から4日後の1942年2月2日、サンパウロ市内の日本人街、通称コンデ街の住民の一部に、突如、一方的な立ち退き命令が、治安当局から下った。
理由は、明確な形では説明されなかった。コンデ街は、官公庁が集中する中心地の直ぐそばにあり、そこに敵性国民が集中して住んでいるのは、不都合であったのだろう。
コンデ街の邦人戸数は350とも400とも言われたが、商店、宿泊所、食堂、各種事務所、住宅などが軒を並べていた。笠戸丸以来の長い歳月の間に、自然に出来上がった日本人のサンパウロに於ける足場であり、心の拠り所であった。
立ち退き命令は二度に分けて出された。2月のそれを免れた住民も、7カ月後には、追い払われる。
住民は、いずれの場合も、抗するスベもなく、去って行った。
この頃、サンパウロの邦人居住者は、1千家族と概算されていた。コンデ街以外ではピニェイロス方面も多かった。そこでは、すでに記した様に、岸本昂一が私立の暁星学園を経営していた。
同学園は、ポルトガル語の授業の他に、当局の許可を得て、外国語としての日本語の授業を、規定の時間内で行っていた。240人の生徒が学んでいた。
ここが難に遭った。
その顛末が、既述の岸本書に出ている。粗筋のみ記す。
2月3日、中折れ帽子を目深に被った目元の鋭い男が学校の塀の前に立ってジーと教室の中を窺っていた。数日後、また、この付近では見慣れぬ男が、朝から放課後まで街路の向こう側をブラブラしながら、生徒たちの一挙一動を見つめていた。24日、2台の車が学園の前にピタリと止まるや、6人の屈強な男が現れ、内4人がドカドカと教室の中に踏みこんできた。
指揮官らしい男が「刑事である」と名乗り、授業を停止させた。次いで、生徒に向かって「所持している本を全部机の上に出せ」と命令。出された本の中に、数冊の日本語のそれが混じっていた。指揮官は「これだ、これだ!」と叫び、担当教師を呼んで「逮捕する」と大喝。
教師が「日本語の授業は、州学務局の許可を得てやっている」と説明すると、噛み付くように「日本語を話すことさえ禁じている現状に於いて日本語の授業ができるか!」と怒号。次いで寄宿舎にまで雪崩れ込んで、生徒の私物の日本語の書物や親元からの手紙まで押収、教師を連行した。警察に着くと、上司に「3歳の子供にまで日本語を教えていました」と虚偽の報告をした。
騒ぎの最中、外出中だった岸本は、翌日、州学務局へ行き相談したところ「連邦政府から日本語授業の禁止令は出ていないが、今は戦時体制になっているので、教育も含めて行政全般が軍部の指揮下に統一されてしまっており、いかんともしがたい。日本語の授業は見合わせた方がよい」という返事であった。
連行された教師は弁護士の奔走で、数日後、釈放されたが、岸本は学園を閉鎖した。
再び半田日誌。1942年2月20日。
「…(略)…新聞がぢゃんぢゃん枢軸国家の悪口を書き出した。…(略)…この頃盛んに第五列論をかきたてている。…(略)…我々を取り囲む空気が重苦しくなってきた。友だちが遊びに来ても、語ることは戦争の進展と、戦後は日本へ帰ることである。河合君、鈴木君、江見さん。我々の仲間…(略)…は皆帰国説をなす」(つづく)